けいおん!という病。”全員女子大進学問題”を考える。

 1.けいおん!「全員女子大進学問題」とは?

 事の発端はみんな大好き(?)けいおん!2期の第21話「卒業アルバム!」で秋山澪公立大学の推薦を蹴って、琴吹紬が志望する女子大に、平沢唯田井中律と共に仲良く4人で進学するという、私はこれを『けいおん!全員女子大進学問題』と呼称しているが、これが最終話の24話「卒業式!」まで覆されること無く、この作品が終焉したことに全て起因している。私は端的にこの問題を、日本社会の精神的後退と怠惰の象徴であると認識している。この記事を執筆している現在(2010.9.20現在)、けいおん!2期は番外編とやらがあと2話残ってるらしいが、全員女子大進学という規定路線が覆されることは無いであろうから、やはり私はこの問題に危機感を感じずにいられないのである。

 2.”離別”を描かずして何が青春か!

 第20話「またまた学園祭!」で、不覚にも私は落涙したのであった。それはこの回が、けいおん!という作品が抱える作品的テーマの全てが内包された、そのカタルシスの昇華であったからに他ならない。けいおん!第1期・第1話で、主人公・平沢唯が、軽音楽部(けいおん)に入るのを決意するその第1話で、いみじくも「翼をください」が流れた。私はこの瞬間、けいおん!は傑作に違いないと踏んだ。(⇒関連記事『きょうび「けいおん!」を観ない奴は非国民である。』)左記の過去記事にも詳しいが、その理由を要約すると『何かしなくちゃいけないような気がするんだけど、いったい何をすればいいんだろう?』という実存の不安に晒されていた、まだ何者でもない平沢唯が、軽音を通じて自己存在を確立していくという、正に青春作品の王道の第一歩を踏み出したからに他なら無いからである。

 このように、けいおん!という作品がその第1期・第1話で、そのような古典的青春ストーリーから出発したとなれば、この作品で求められる作品的テーマはただひとつである。それは、「軽音楽部」を通じ自己存在を確立し、それを通じて結ばれた仲間との確固たる友情は、「卒業」という離別を通じて完成されるというこの一点に尽きる。いわば、青春モノの甘酸っぱさと、切なさと、見るものに与える感動の全ては、高校時代(若しくは中学時代)という名のモラトリアムは、しかしどう足掻いても3年で終わってしまうという、その儚さこそに、全てが凝縮されているからに他ならないのである。

 翻って、2期を通じたけいおん!はどうであったか。私は、流石京都アニメーションだけあって、1期・2期を通じて人物感情の丁寧で精巧な描写は素晴らしいものがあったと思う。特に、1期・2期のEDのクールさといったら、アニメ史に残るものであろう。しかし、しかしである。肝心の、青春とは離別によって完成される、という大テーマをいとも簡単に本作は踏みにじってしまった。残念ながら、けいおん!を見ない奴は非国民の前言は完全撤回するより他に無いであろう。

 話を少し戻すと、20話の「またまた学園祭!」で、彼女たちは何といったか思い出して欲しい。彼女たちはステージの上で「ずっと演奏していたいけど、最後の曲です。放課後ティータイム、U&I」と切り出し最後の演奏を始める。それは文字通り、高校生活最後の演奏であり、彼女たち4人+1(あずにゃん)の最後の演奏であった筈である。いみじくも「U&I」の歌詞では次のように謳われている。




キミがそばにいることを当たり前に思ってた
こんな日々がずっとずっと 続くんだと思ってたよ

ゴメン今は気づいたよ 当たり前じゃないことに


 これこそが、もう終わってしまうモラトリアム=青春の儚さと切なさの全てを象徴しているのだ。だからこそ彼女たちは、ライブが終わった後お互いに号泣し抱擁するのである。この場面で視聴者も落涙するのは道理であろう。ところが、続く21話では同じ女子大に全員が早々と進路を決め、22話では特に苦労も無く全員が女子大に合格する。当たり前のことだが、全員が同じ女子大に進学する以上、本作では離別はありえない。形式的に卒業式をやったところで、それは何の作品的意味の無い無味乾燥な記号に成り果てるのである。このような終焉が、作品的に許されていいのであろうか。そして、その「ずっと続く青春」は果たして彼女たちに益をもたらすのであろうか、そして見るものに成長を与えるのであろうか、甚だ疑問である。


*この後の展開でその涙が全く無駄になった第20話


 3.彼女達を愛するなら離別させるべき

 そも青春作品で離別が描かれるのは、仲が良い彼ら彼女達を「卒業」という社会的システムを利用して悪意の元に引き裂くのでは無い。「卒業(若しくは他の理由でも良いが)」によって登場人物が離別してラストを迎える理由は、離別の先には成長が待っているからに他ならない。読者諸兄も実際の人生経験で数々の離別を経験したであろう。小学校からの友人、中学の同級生、高校時代の親友達etc…、しかし人は必ずそこから離別しなければならないのである。我々人間が母親の母乳から離別して更に一段と大きくなるように、離別とは終わりではなく始まりの予兆であり、その先に成長という希望があるからこそ、その離別は必ずしも暗澹たるものではなく、寧ろ光に満ち溢れているのである。それこそが青春、それこそが人生の真実なのでは無いのであろうか。

 だからこそ、けいおん!の主人公らも当然の如く離別が必要であった。もしけいおん!の熱狂的ファンらが、けいおん!という作品を愛し、彼女達登場人物を本当に愛しているのなら、彼女達の為にも絶対に離別が必要であった。彼女達が別々の進路、別々の大学を歩むからこそ、彼女達4+1の軽音活動は光り輝き、その思い出を秘めて後人生を歩んでいけるのではないか。

 しかし、けいおん!は遺憾なことに彼女達にその成長の道を歩ませようとしなかった。今回京アニは、彼女達を成長させること無く、怠惰な時間の流れの中に留めて置くのが良いと判断して、更にこれを視聴者の大半が支持しているようである事は、誠に嘆かわしいばかりである。

 いつまでもこの楽しい学園生活がずっと終わらないで欲しい。でもいずれは終わる。しかも3年以内に。それこそが青春の現実なのに、それを一切反故にしてしまうけいおん!は罪深い。これと似たようなテーマに押井守監督の「ビューティフル・ドリーマー」がある。この作品では無邪鬼という妖怪が永遠に続く楽しさを渇望する主人公達を夢の中に取り込んでしまうというオチであるが、本作ではこの楽しげな夢を最終的には否定し、現実に帰還することを選択するという物語であることは読者諸兄なら存じているであろう。現実は辛く、現実は厳しく、現実は理不尽である。しかし、その現実に立ち向かわなければ、それは虚構であり嘘であり夢である、というのがビューティフル・ドリーマーのテーマである(無論、それすらも嘘なのではという皮肉でもあるが)が、翻ってけいおん!の主人公達は、無邪鬼の作った夢の中で何時までもいつまでもお菓子を食いながら楽しく暮らす夢遊病者の如き人生を歩むことを善としているかのように思える。

 これらに類似するテーマ性を内包した作品は洋の東西を問わず沢山存在するが、非常に著名なところではこれら押井作品の薫陶を受けたマトリックスもそうである。けいおん!に例えるなら、離別の道を歩まなかったあの4人は、脳髄に電極を繋がれていつまでも現実に覚醒しない植物人間に類似しては居まいか。彼女達4人の為を思うのであれば、秋山澪公立大学の推薦を蹴った時点で、唯は烈火の如く怒るのが正解である。秋山澪の可能性を潰してしまうその選択を、本当の友達であるなら許してはなら無い筈だ。しかし唯はおろか、担任の教師にしても何の躊躇も無くその選択を笑って許可するという、これがオトナとしての真摯な態度とは私には到底思えない。思えないどころかその無責任な態度は教育者として失格であり、不快感さえ感じる21話であった。

 彼女達4人には、桜高校を卒業して同じ女子大に進学し、あまつさえ同じ会社に揃って就職でもするというのだろうか。どうせこの調子ではあずにゃんとやらも1年後に同じ女子大に入るのであろう。これは極めて気持ちの悪い、グロテスクな最終回である。何度も言うように、本作を愛し、彼女達を愛するのであればあるほど、全員女子大進学などという狂った設定を許してはならない。その先に成長は無く、怠惰と堕落が待っているだけである。人間形成に貴重な高校時代および大学時代を、同じ固定メンバーだけで過ごすなど、これは他でもないオトナが止めなければならないのである。一時の感情だけで、人生を決めてよいのか、と。それは君達の為にならないよ、と。

 そしてまるで、同じ女子大に進学しないと4人の友情が維持できないかも知れぬという描写も腹立たしい。新海誠の「ほしのこえ」では8光年離れていても心が繋がっている。翻ってけいおん!では、同じ女子大に進学しなければ友情が壊れてしまうという、逆説的に彼女達4人の人間関係の薄っぺらさも描写することになってしまった。本当に20話の彼女達の落涙は何であったのか、疑問である。


*物理的な距離は関係性の障害ではないことを描いた新海誠ほしのこえ」と比べると、けいおん!の描写は逆説的に4人の人間関係の希薄さを浮き立たせてしまう。同監督の「秒速5センチメートル」も同様。京アニの見識を疑う。


 4.現実から逃げる為のけいおん!けいおん!は「日本病」患者のモルヒネだ。

 私はこの記事を書くに先だって、twitterアニオタ保守本流「けいおん!全員女子大進学問題をdisってみた」をとぅぎゃって纏めた。これは大変な反響のようであるが、ここのツイートの纏めのひとつに秀逸なものがあるので本ブログでも一寸だけ紹介したい。

 @sugari氏 けいおんモルヒネ

 このツイートは極めて秀逸である。この短文のひとつが、女子大進学問題と名づけたこの問題の本質の全てを言い表しているからである。現実を直視せず、将来の可能性までをも奪って、4人全員が同じ女子大に進学することでエンディングを迎えたけいおん!。先に書いたように、離別によって成長することを拒否(忌避)した本作は、@sugari氏のツイートを再び引用するとすればそれは、

 @sugari氏 ”トマス=モアの作ったユートピアという概念は、ギリシア語で「すばらしく良いがどこにもない場所」の意。けいおんの世界はまさしくユートピア。それは天国や極楽へ通じる思想。誰かが言った。天国には死人しかいないと。”

 の一言である。再び言うが、現実は辛く、現実は厳しく、現実は理不尽である。その現実から逃げるためには、現実にはありえないけいおん!のような”夢”の中に逃げ込み、そこに救いを求めるのが最も好都合である。女子だけの、女子だけによる、女子だけの部活動、楽しい女子だけによる学園生活が永遠と、大学でも続くなんて、正に”昨今の萌えオタク”にはド直球に受容されそうな設定を確信犯的に京アニは形成している。だからこそ本作けいおん!がこれほど支持されているわけであるが、残念ながら再三再四述べているように、現実を忌避し、想像力の中に救いを求めるのは私は間違っていると思う。 @sugari氏の最初のツイートに戻れば、それは現実という苦痛の緩和剤としてのモルヒネの効用に他ならない。あずにゃんぺろぺろ、ムギ愛してる…確かに楽しいであろう、しかしそこには作中の彼女達の成長は無いばかりか、視聴者である我々の成長も皆無であることを知らなくてはならない。

 もののけ姫ハンセン氏病の長いわく、生きることは苦痛である。しかし、その苦痛の緩和剤としてけいおん!という名のモルヒネに頼ることは、甚だ危険なことであろう。なぜならモルヒネはだんだんと効かなくなるからであり、当たり前のことだがけいおん!シリーズがどんなに長く続いたとてサザエさんのような時間軸ループ作品では無い以上、それですら終焉を迎えるしかないからである。

 
宮崎駿監督「もののけ姫」ではハンセン氏病の長(おさ)を通じて、次のような台詞が語られる。「生きることはまことに苦しく辛い。世を呪い人を呪い。それでも生きたい…」我々は想像力の中に逃げ込んではならない。現実が辛く苦しいからこそ、想像力を土台にして現実に立ち向かわねばならないのだ。

 彼女たち4人を同じ大学、しかも男性という”敵(視聴者から見ての)”が存在しない、全くの保護領域・ユートピア下にそのまま存置させるという選択は、私は何か成長しないことを善とする、失われた20年以降の、日本人のメンタリティの根源が如実に影響しているように思えてならない。即ちこれらを総称して日本病といわれることがあるが、本作けいおん!こそ、それの究極的な到達点にあるように思えてならないのは私だけではあるまい。

 このような、成長しないことを善とする価値観、頑張らなくてよいことを善とする認識、積極的に切磋琢磨することを蔑視する風潮、これらの”日本病”は別称としてガラパゴス化と呼ぶこともあろうが、成長する諸外国を尻目に、日本経済の実勢的な数値はおろか、メンタリティすらも腐敗、堕落の極みに達しているのが現在日本のカルチャーの現状であり、私はその先鋭的なものとして「萌え」(萌えアニメ)がそれに当たると書いて反響があった。⇒詳細は(詳細は『ガラパゴス化する日本と萌えアニメ』を参照されたい)

 当然の事ながら、萌えアニメトップランナーである京アニけいおん!はその先鋭に該当するのであるが、殊けいおん!がこのよう終了となった以上、やはりこれは社会的害悪として断罪せざるをえないのではないだろうか。仲間内だけで関係性を構築し、外部に晒されることの無い(女子高・女子大)、その閉ざされた関係性(ムラ)が永遠と継続されることを善とする作品…。この全員女子大進学問題に代表される、成長する事、外部に触れることを良しとしない作品、またそれを完全受動で受け入れる視聴者が広域に、特に若者層において顕著に存在する限り、日本の将来は益々真っ暗である。 

 かつて想像力とは、現実に対抗することを前提に作られていた。その代表格が新世紀エヴァンゲリオンであることは言うまでも無い。エヴァンゲリオンで、庵野秀明監督はその劇場版(旧)に於いて、エヴァに浮かれたコアなマニア(そこには私も含む)に『現実に帰れ!』と説いた。かくして私はエヴァという夢から現実に帰還し、後人生を歩んでいる。しかし、けいおん!を無批判に受容する若者は、現実に帰るどころか現実を忘れるための「モルヒネ」としてけいおん!を受容している。そこからは何のクリエイティブも、何の発展も生まれはしない。


新世紀エヴァンゲリオン 旧劇場版 Air/まごころを君(1997年)では、いみじくもラストの実写シーンで観客席を映すことにより、「現実に帰れ」とメッセージがこめられていた。それから10余年が田って、アニメから放たれるメッセージは正反対のモノになっている悲しさ。

 現実が辛い、現実が厳しい、現実が暗いからといって、無邪鬼の作った夢=けいおん!の中に逃げ込んで、「あずにゃんぺろぺろ」とか言っているうちに、彼らは25歳になり30歳になり、気が付いたときには40歳になっている。腹は出て、髪は薄くなり、青春の輝きは遠い過去の遺物でしかなくなる。その時に、福本伸行先生の「最強伝説黒沢」ばりに現実の冷酷さにはたと気が付き、現実に立ち向かおうと思っても、けいおん!型の逃避アニメばかりに偏った想像力の備蓄しかなければ、全くもってお話にならないであろう。

 けいおん!をみて今は楽しい彼らは、彼らの親や祖父の世代の日本国家のインフラを食い潰している、その安寧の上に生きているに過ぎない。彼らの親の世代が寿命で死滅するとき、けいおん!に逃避する暇も無いほどに、この国は疲弊しているであろう。モルヒネをいくら打っても効かないほど、日本国の病状は進行していくであろう。そのときの為に、現実に立ち向かう力を想像力から涵養しなくてなんとするか。かつての先人達が、想像力から現実へ立ち向かったのと全く逆の現象が今、日本の若者の間で起こっていることは極めて憂慮すべき事態である。その筆頭が、残念ながらけいおん!であり、製作者の京アニは益々以って罪深い。だからこそ、現実へ立ち向かう想像力として、彼女達の離別は絶対必要であったのだが。

 本来、彼女達が桜高校を卒業すると同時に、我々視聴者もけいおん!から卒業・離別しなければならないのだ。



京都府国勢調査のイメージキャラクターになったけいおん!。現実から逃避し、成長しないことを肯定する本作をマスコットに使ったところで、未来の為に実施する国勢調査の一体何に寄与するのか全く疑問である。

 追加.twitterまとめへの反論

 twitterアニオタ保守本流「けいおん!全員女子大進学問題をdisってみた」が大反響なのであるが、ここのコメント欄に多い意見を紹介すると、あずにゃんと先生(さわちゃん)の別れは描かれていたのだから、離別のテーマ性は描かれているので良いということである。

 これらの意見では、一定程度私の”青春とは離別を以って完成される”という論には共感抱けたのであろう。しかし、それをして「あずにゃん」と「先生」は分かれるから…の反論は本作を駄作から救い上げるだけの免罪符には到底ならないことを自覚すべきである。

 当たり前のことだが、主人公4人の実存こそが問われる作品において、あずにゃんと先生は付属物に過ぎない。先に書いたように、このような終劇であると、どうせあずにゃんは1年遅れで同じ女子大に進学、先生はどうせ彼女達が女子大に行っても仲のよいお茶のみ仲間ぐらいの地位に成り下がるのではないか、と容易に想像がついてしまう。いくら付属物に試練を与えたところで、本筋の4人が一緒である以上、それは無意味な悪あがきなのである。

 

 更にもう一点多かったのが、「アニメに成長を求めるのは間違っている」という意見であるが、これも笑止であろう。本文でも書いたとおり、かつて先人達は現実に立ち向かう力を想像力の中で涵養していた。かつての先人達よりも益々わが国を取り巻く状況が悪化している平成の昨今、想像力は益々現実に立ち向かうための糧に張らなくてはならないのではないだろうか。

 私は、少し前だがSMAPの「世界にひとつだけの花」というポップソングが大ヒットして驚愕したことがある。その歌の中では、「ナンバーワンにならなくてもよい、もともと特別なオンリーワン」というフレーズが繰り返し謳われていた。私はこの歌が、平成日本の怠惰の象徴のすべてでは無いかと思う。頑張らなくて良い、成長しなくて良いことを善とする思想…それが音楽やらアニメやら漫画やらのカルチャーの想像力の中で毒電波として発信され続けている。

 私はこのような一連のカルチャーの中にある腐敗した想像力(その先鋭的なものがアニメに於ける萌えであるとはこちらの記事で詳述している)の、最も顕著な作品が前述の通り本作けいおん!のラストに反映されていると強く感じている。

 あずにゃんぺろぺろ…と日本人のうら若い青少年が想像力の中に逃避している間に、中国人は巧妙に尖閣諸島に接近し、世界中に中華ネットワークを張り巡らせ、米粒の1つ、飲料水の1滴、石油の1滲みを獲得するために血眼になって向かって来ている。よくネットではシナ人の民度云々というが、生存の為に現実に立ち向かっている中国人の民度云々を、想像力の中に逃げ込みあまつさえそこに篭る事を善とする堕落した日本人がとやかく言う資格など無い。

 GDPで追い抜かされ、尖閣諸島に侵攻され、小日本と徹底的に小馬鹿にされ、アジアに於ける地位が失墜しても、まだ日本の若者はけいおん!という名のモルヒネを打ち続け、想像力の中で安寧するのであろうか。特にこの国の未来を担う若年層がそれでは、本記事のタイトルの通りそれは病を通り越して害悪になりかねないのではなかろうか。

 日本以外の世界中の人々は、成長することに疑問を抱かない。己を研鑽することに疑念を持たない。ナンバーワンに成らなくとも良い…という腐った思想からは何も生まれない。世界中で日本人だけがこのような狂った思想の中に埋没している。100年後の史家は、日本滅亡の精神的原因にこのことを挙げるであろうと私は予言しておく。そして、折角それに対抗できる想像力を涵養するカルチャーの、アニメにおけるトップランナーであるけいおん!がこの体たらくでは、もう暗黒しか無いことは論を待たないのである。





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