中沢啓治先生はやはり偉人であった

 先日、「はだしのゲン」の作者である中沢啓治先生が肺がんにより逝去されたという報は記憶に新しい。
 「ゲン」を幼少時より慣れ親しんだ私にとって、この報はショックこの上ない事と共に、改めて「はだしのゲン」と中沢先生の偉大さを噛み締めるものである。

 「ゲン」は本当に不幸な漫画であると思う。評論家の呉智英氏が、こう言っている。
”「はだしのゲン」は二種類の政治屋たちによって誤解されてきた不幸な傑作だ。二種類の政治屋とは、「はだしのゲン」は反戦反核を訴えた良いマンガだと主張する政治屋と、反戦反核を訴えた悪いマンガだと主張する政治屋である。”

 近年では、ほうぼうで「ゲン」の評価は後者の方ばかりが独り歩きしている。やれ作中に日本軍の三光作戦支那戦争中)の捏造があるとか、天皇(昭和)の戦争責任を糾弾するシーンがあるとか、そして朝鮮人の強制連行(徴用工に関して)のこれまた酷い事実誤認と捏造があるとかいった風で、ゲン=左翼漫画というふうに貶める内容になっている。確かに中沢先生は終戦時に6歳(=被爆時)であるから、大陸戦線や朝鮮統治時代を知るよしもない。
 要するにこの部分は、戦後の伝聞推定で勝手に描き上げられている妄想である。これと同じ現象は、ラバウル戦線に出征して左腕を失った水木しげる先生もそうで、作中に「日本は中国と朝鮮人を馬か牛のようにこき使った」などとまたぞろ古色蒼然とした自虐史観のオンパレードである。尤も、水木先生の場合は終戦時には成人しているが、南方戦線しか知らないはずなのでやはり大陸のことについては伝聞推定の妄想のたぐいだろう。
 
 しかし私は、昨今この様に「はだしのゲン」が低く評価されることには猛烈な違和感を感じる。大体、「ゲン」を左翼漫画だと批判する人々は漫画全巻を通読し、更にアニメの劇場版の方をもきちんと鑑賞してから言っているのだろうか。前出の呉智英は「ゲン」についてこうも言っている。

”漫画にしろ美術、文学にしろ、何かを訴えるという事は評価の基準にならない。その訴えが正しかったか、間違っていたかなど、本質的な問題ではない。(略)それよりも人間を描けているか、人を感動させるかが、作品の評価基準になる。「はだしのゲン」はこの意味においてまさしく傑作である”
”「はだしのゲン」の中には、しばしば政治的な言葉が、しかも稚拙な政治的言葉が出てくる。これを作者の訴えと単純に解釈してはならない。そのように読めば「ゲン」は稚拙な政治的漫画だということになってしまう。そうではなく この作品は不条理な運命に抗う民衆の記録なのだ。”

 当たり前のことだが、「ゲン」は政治的漫画ではなく、1945年8月6日を境に激変してしまった少年・ゲンの人生を軸に、焼け跡で生きる戦後の一民衆を描いた群像劇である。まるで作品すべてが反戦平和の自虐史観に染め上げられているかのように誤解するのは、この漫画を全く読んでいないか、それとも作中の中沢啓治先生のように行っても居ない戦線の模様を妄想で解釈してしまっているのと同じような愚を犯していることになろう。

 「ゲン」はまず漫画作品として非常に秀逸だと言える。そして各エピソードの漫画的リアリティは、戦後世代が描いた例えば小林よしのりの「戦争論」とは比べ物にならないほど完成度が高く、情緒的である。ゲンの兄(長兄)の浩二が、戦争に反対して白眼視されている父親と家族の境遇を気遣って、自ら率先して予科練に志願する原爆投下前のシーンがある。当然、平和主義者の父親は反対する。駅頭の見送りにも来ない。「親父はとうとう見送りにも来てくれなかった…」と思うと、一点、突き進む汽車の車窓から線路沿いに父親が仁王立ちしている。「中岡浩二ばんざーい、中岡浩二ばんざーい!」もうこのシーンなど涙なしには語れないのだが、これを踏まえても「ゲン」を「左翼漫画」と言うのならもうサジを投げるしか無い漫画的リテラシーである。

 はだしのゲンにはこの様な、読むものの心を掴んで離さないシーンが沢山登場する。傷痍軍人となり内地に帰還したガラス屋の親父ために、ゲンと弟(進次)が街中のガラスわざと割って回るシーン。その恩に、ガラス屋は進次に息子の形見であるはずの戦艦の模型をプレゼントする。皮肉にも進次はその模型と共に火の中に没するのだが…

 一々思い出する涙腺が緩むのだが、まず第一に政治の左右ではなく漫画としてよくできている。戦前はバリバリの軍国主義者で翼賛主義者だった鮫島町内会長。被爆時、「坊ちゃん、おねがいだから助けてくれ」とそれまでざんざん非国民と白眼視してきたゲンに助けを求める。戦後、鮫島はころっと変わって「反戦平和」を唱える広島市の県会議員として何食わぬ顔を演説している…。こういった戦後の胡散臭さを描いている辺り、やはり「ゲン」は漫画として突出した白眉の作品といえる。問題の朝鮮人の描写も、戦後ちゃんと居丈高に振舞う第三国人の描写も挿入している。体験したものだからこそ描ける、戦後の空気である。残念ながらこの漫画的な説得力は「戦争論」にはない。私は別に戦争論を批判しているのではなくて、それは作者が戦後生まれだから仕方が無いといっているのだ。私はやはり「ゲン」は傑作であると思う。

「食わず嫌い」で「ゲン」を読まない「保守」の人々は、まずこれを機に「ゲン」を通読してみれば良い。どうしても時間がないというのなら、アニメ映画版の「はだしのゲン」を見ることだ。特に原爆炸裂シーンは10回くらい見なおして欲しい。これがアメリカのやったことなんだと。これがアメリカの戦争犯罪なのだと脳裏に焼き付けて欲しいと思う。

 被爆当時、広島市内を撮った写真は当時中国新聞の松重美人記者が残したわずか6枚の写真しかない。当時はカメラ撮影がスパイ行為に当たるとして、写真は厳重な制限があった。いまのように自由に屋外に持ち出せる時代ではなかった。それでも6枚あったのは奇跡だが、当時の実相を伝えるのが最早、証言と絵しかない現在、これを物語にして見せた「はだしのゲン」にどれだけの歴史的意義があるか、計り知れない。政治の左右にとらわれず、いまこそ「はだしのゲン」を見なおせ、と言いたい次第である。

そもそも、戦争も原爆も知らない戦後世代が、それら修羅を体験した人々の「反戦平和」思想を、嘲笑う資格があるのだろうか。戦争も原爆も知らない戦後世代の空虚な理論を嘲笑うのは良いが、それを体験した先人の言葉を、政治の左右に括弧して貶める行為は、自らの世界を偏狭にしている原因だと思う。被爆者や戦争従軍者が護憲平和を訴えることはよくあるが、第一世代の彼らの言葉をバカにする資格が、平和の海にどっぷりつかって空調の効いた快適な部屋で菓子を貪っている我々にあるとは思えない。私はそこまで傲慢にはなれない。

 と思ったらyoutubeにアニメ映画版があった。暇な人は是非。



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