「利休にたずねよ」は薄っぺらい日韓友好映画なのか?

一部で話題になっている映画『利休にたずねよ』を観てきた。なぜ話題になっているのかといえば、「作中で描写される歴史の捏造がはなはだしい」というものである。こういった批判をまとめると、


・ 作中で韓国の国花である槿(むくげ)がフィーチャーされているが、利休が愛したのは京椿。槿ではない。
・ 日本人が李氏朝鮮の姫を拉致した事実はない。青年利休との心中はフィクション。
李氏朝鮮の姫に利休が唐辛子を買って、料理に使い喜ばせる演出があるがこれも嘘。朝鮮に唐辛子が広まるのは、秀吉の朝鮮出兵で防寒用に持ち込んだ後
・ 作中では日本人の職人(長次郎)が利休の思い描くものを作れなかったことになっていて、高麗物の小壺(香合)を見せているが、緑釉は朝鮮にはなく、そもそも長次郎は交趾焼の工人の父を持つ瓦職人である。
・ 作中に登場する高麗物の緑釉はフィクション。当時の高麗では貴人は景徳鎮に似せた白瓷を追い求めており、白瓷器が主流。
・ 作中で麗しい衣裳としてチマチョゴリが登場するが、チマチョゴリは授乳着であり、乳が丸出しだった。これが現在の形になったのは日韓併合以後。
・ 茶道は朝鮮半島を経由せず支那より直接渡来したが、それは喫茶法であり、点前の式法ではない。式法は中尾真能によって能や弓道、礼法を参考にして、日本 で独自に定められたもの。
・ 当時李氏朝鮮では、日本で持て囃された井戸などは雑器であり、貴人が用いないことが、秀吉が謁見を許した通信使の発言で分かっている。つまり、李氏朝鮮の姫が利休に井戸などの良さを教えることは出来ない。
出典*表千家都流茶道教授 月甫宗地氏のエントリー「利休にたずねよ の嘘を暴く」より


 ということである。正直、私は、上記の指摘がすべて正しいとしても、それは映画の完成度やクオリティとあまり関係がないと思っている。なぜなら、時代を扱った映画やドラマが、その時代に忠実であるかどうか、つまり歴史考証に忠実な作品が良い映画かというとそういうことではなく、また歴史考証がでたらめな映画は駄作なのか、というとそんなことはないのである。

 たとえば、スピルバーグの『シンドラーのリスト』はそもそも舞台がドイツなのに全員英語をしゃべっている時点で時代考証を無視している。リュックベッソンンの『ジャンヌダルク』はジャンヌはフランス人だが「フォロミー」などと平気でいっている。ハリウッドの歴史ものに良くありがちなこの「言語問題」は、しかしその矛盾を補って余りあるほどの映画的完成度を保っているからこそ許される歴史の改ざんである。
 私が大好きなタランティーノの(最高傑作と思っている)、『イングロリアスバスターズ』は、あんなもの全部嘘っぱちだが最高にクールだ。当時の言語を忠実に再現したという『アポカリプト』もたぶん細部には創作と嘘が混じっているだろうが、すばらしい作品である。そして黒澤明の『乱』は架空の大名家の戦いだし、そもそも当時を忠実に再現しようと思えば『暴れん坊将軍』とか『遠山の金さん』とか『水戸黄門』とか、ほとんど全部創作なのであるから、作り変えなければならない。女優がお歯黒を塗っていない、武士が競走馬みたいな背の高い馬に乗っている、ガス灯が開発される以前の江戸の町が妙に明るい、妙に標準語でしゃべる代官とか、時代映画やドラマの「嘘」をあげていけばキリがない。我々は、現代人の感覚でしか歴史を再現することはできないのである。当時を忠実に再現した作品は、たぶん映画的な「エンターテイメント性」とは全く合致しないからだ。だから歴史映画というのは、常に当時の史実を現代風にアレンジした上で、我々の感性との妥協点で作られているし、またそう作るしかないということをまず、押さえておかなければならない。重要なのは、時代考証がしっかりなされているかではなく、映画的な完成度が高いか否か、という部分だ。

 それを踏まえたうえで、私は「利休にたずねよ」の数々の歴史の「嘘」を点検することよりも、この映画の脚本、演出、その他の「映画的」な構成要素をことさら重視して鑑賞に望んだ。正直言って、伊勢谷友介が演じる信長とか、大森南朋豊臣秀吉も、基本的には年末年始とかにやる5、6時間モノの「民間大河」のレベルを出ていない、安直でオーソドックスなものだ。
 しかしこの映画が重視しているのは歴史映画の重厚感ではない。冒頭、満月の夜に信長が各地の茶人を呼んで、茶器を値踏みするシーンがある。おのおのが壮麗な名物を持ち寄る中、利休だけがお盆を持参する。「あのような(粗末な)ものを」と嘲笑される中、利休は盆に水を注ぎ、水面に夜空の満月を映し出す。盆の模様とあいまって、そこには見事な名月が映し出され、周囲は感嘆する…。
 この冒頭のシーンが、利休という人間とこの映画のテーマのすべてを語っているといってよい。つまり、物質、金銭、地位、名誉・・・といった「世俗」的なものと全く違う次元に利休が存在することを示し、「世俗」と「美」を明確に対峙させ、美にこそ生きる人間が利休であり、その利休の世界観に、当時の武士階級のみならず一般庶民までが惹かれていく様子が描写されるのである。

 しかし、この映画の全く残念なことは、途中から高麗(李氏朝鮮)の姫が登場する段である。利休は茶人になる前、全くの遊び人として描かれるが、その姫に「美」の何たるかを学び、「世俗」から足を洗って一人前の茶人へと変身する場面なのであるが、利休が究極の「美」を教わったとされるその高麗姫は、基本的に茶人でもなければ芸術家でもなく、結局のところ単なる色恋沙汰の一種の域を出ないものであり、なぜこの高麗娘が利休に「美」を授けたのか、利休がこの高麗娘から何を学んだのか、全く意味不明で説明不足なのである。
 少し前に『終戦のエンペラー』という映画があった。主人公のボナー・フェラーズという米軍の准将が、戦争中に静岡を爆撃リストからはずすように、と指示していたことが明らかになるシーンがある。なぜかというと、恋仲にあった日本女性が静岡に住んでいるから、という理由。「何だ、結局、こいつが好きなのは日本じゃなく女か」という当時のがっかり感と『利休にたずねよ』のそれは、図らずもシンクロする。

 物質、金銭、地位、名誉といった世俗的なものと、最も遠いところにある美を追求していたはずの利休は、結局「痴情」という最も世俗的なものに縛られていた、という脚本からは、結局千利休という人は単なる俗人だったのか、という風にしか解釈できない。この映画のテーマであるはずの、世俗から超越した「美」というもののテーマが、変に唐突の感がある高麗娘との色恋エピソードが入るものだから、全くもってぼやけているのである。ここに「日韓友好」のイデオロギー的感情が、もし入っているのだとしたら、あまりにも薄っぺらい映画的演出だ。

 失礼を承知でつらつら書いたが、私は本作の原作(山本兼一氏)の小説を読んでいないので、原作はこのあたりがもっと補完されているのであろう。ただ、あくまで映画としてみた場合、この作品は全く凡庸なクオリティしかない。
利休にたずねよ』という本作のタイトルは、「利休さん、結局あなたが好きなのは美なのですか、昔の女だったですか」という皮肉なのか。そう解釈されても仕方ないほど、脚本力も監督力も弱い。映画としての完成度が高ければ、私は日韓友好でも歴史の捏造でも、なんでも喜んで受け入れるが、残念ながら本作は、そもそも映画として全く面白くない。



                                                                                                                • -

さる2013年12月14日に発売されました小生5作目の著作『反日メディアの正体 戦時体制に残る病理』(KKベストセラーズ)発売中です。

NEW私の公式サイトが出来ました!
⇒古谷経衡公式サイトhttp://www.furuyatsunehira.com/


☆アニオタ保守本流ブログランキング参戦中*木戸銭代わりにクリック願います!↓↓

banner_02.gif


貴方に是非ともやって欲しいアニオタ診断:
★日本一硬派なアニメオタク診断 http://kantei.am/55866/