「時をかける少女(細田版)」劇場公開1周年の総括

aniotahosyu2007-07-15

言わずもがな「時をかける少女」である。言うまでも無く細田守監督の「時をかける少女」公開から本日でちょうど1年が過ぎたことになる。総括である。

まだ見ていない人、ちょっとアニオタと自称するに忍びないのではないか。是非DVDを買うか借りるかしていただきたい。「今スグデモ遅クナイカラTSUTAYAニイケ、諸君ノ父モ母モ皆泣イテオルゾ」である。

さ、前置きはこのくらいにして、細田版「時をかける少女」(以下、時をかける少女)の日本アニメ史に残る輝かしい功績は枚挙に暇が無いが、最大のそれは「リメイクの常識」を塗り替えたことであろう。昭和の大林監督の実写版「時をかける少女」も素晴らしいがいやはやなんとも昭和のかをりが漂うことであろうか。ややもすればフィルムから田中角栄のだみ声が聞こえてきそうであるが、この昭和の空気を見事なまでに、完膚なきまでに一掃して再構築した細田守監督の力量はどれほどのものであろうか。

普通、リメイクすると大抵が作品完成度劣化の憂き目に遭うのは、古今東西の歴史が証明している。そして、それを避けんがために1作目を大幅に改編すると今度は作品のバランスが崩れてしまうという諸刃の刃が潜んでいる。今回、細田監督はその両方を克服し、さらに本作をさらなる高みに一歩も二歩も押し上げる偉業を成し遂げたのである。



真琴の学園生活を中心に描かれる前半30分の部分に、管理人は失礼ながら心の中で「なんというリア充」と思い、見ていて恥ずかしくなった。これはあくまで管理人の偏見であるが、あんなに幸せな学園(高校)生活を送った経験があるのは日本国においてせいぜい0コンマ2%位(帝国データバンク調べ)なものであり、大抵が悶々と親に見つからないよう物音も立てずに自室にこもってオナニーにふけるか、高校2年でマルクスに出会い、一丁前に共産党宣言資本論に手を出して万国のプロレタリアート団結せよ、同級生をオルグって職員室に押しかけよう、などと息巻いたりするものである。まぁこれは行き過ぎとしても、真琴は「なんというリア充」なわけであるが、しかし徐々にこれが効いてくるのである。

彼女の幸せな学園生活が、幸せであればあるほど、もう二度と戻らない時間、

Time waits for no one.

の台詞がじわじわと効いてくる。この緻密に計算された脚本にはやられた。泣いた!がんばった!感動した!の3つで終わると言えばそれまでだが、泣くまい泣くまいと思っても、どうしても「ぶわはぁ」と涙があふれてくる。これはもうどうしようもない。劇場内に啜り泣きと嗚咽が絶えなかったことは言うまでもないのである。

そして、やはり圧巻であるのは美術である。MIXIのコミュで時をかける少女のロケ地巡りというのが在って興味深かったが、杉並区に多いようである。作中では、舞台が杉並であるなどと語られることは無かったが、あの真夏の入道雲のなんと綺麗な事か。あの下校時の町並みのなんと美しいことか。



あのコンクリート造の校舎のなんと美しいことか。そしてあのラストの夕日に映る川辺(荒川をモデルにしているそうである)のなんと光り輝いていることか。管理人は思った。これこそ美しい国だ、と。美しい国はわれわれの心の中にイデアとしてあり、すでに失われて久しい日本の代名詞ではなかった。「美しい国」は時をかける少女の中にこそある、と強くそう思った。灯台下暗し。拝啓安部(前)首相。美しい国はここにあります。



結論を出してしまおう。時をかける少女は、「希望」。この一言に尽きる。思うに、この映画は国民全員が見るべきである。この国の既成の大手マスメディアは、かわいそうな人・悲惨な人・どうしようもない人・何かに失敗した人をカメラに収めて国民に見せ付けることで社会をコントロールしようとしている。なぜなら、カメラに映る彼らはその他大勢の日本人にとって溜飲を下げる対象であるからである。



マスメディアはそうやって、国民に対し「まだ大丈夫ですよあなたはまだこの人たちよりマシですよ」と刷り込むことによって、国民から向上心や向学心を徹底的に奪う戦術に出ている。間違っても国民にがんばっている人、前向きな人、確固たる目標を持って努力している人、その結果成功をつかんだ人、を見せてはいけないのである。そうすると国民は希望を持ちやる気を出す恐れがあるからである。



そうなると一番怖いのは彼らマスメディアである。向上心を持ち、自身で積極的に情報を習得し、体系的に人生を生きていこうとする人間が増えれば、真っ先にマスメディアの腐敗・堕落・旧弊に目が向けられるからである。オランダやイギリスやフランスがかつて世界中の植民地でしたと同じように、マスメディアは日々日本国民の愚民化計画を推し進めているのである。彼ら体制の保持のために。

現在の若者世代は無気力で怠惰である、という盛んな喧伝は彼らの付く嘘である。真琴みたいにまっすぐ走っていく若者は、実は結構多いと思う。そこに対し、素直に当てたスポット、それこそが本作の意義ではなかろうか。



--------------------------------------------

「原作が描く究極の技術社会のような未来は、今の僕らには信じられない。じゃあどんな未来が提示できるのか? 真琴に引っ張られて行き着いた考えは『未来は一人ひとりが自分で切りひらくもの』。アシモのダンスより、走っている女の子の姿が一番未来的、未来そのものだと思った」

監督:細田守


文・古谷経衡(アニオタ保守本流


☆アニオタ保守本流ブログランキング参戦中*バナーをクリック!↓↓

banner_02.gif