あの頃の宮崎駿は涙が出るくらい輝いていた
いま紅の豚が金曜ロードショーでやっている。もう何十回とみたので今更目を凝らしてみる必要は無いが、ピッコロ社の裏手からミラノの運河をズアッーと進んで飛行艇が水しぶきを上げながら離陸するシーンとカーチスとの空中戦は何度見ても涙が出る程美しい。
ご存知の通り、紅の豚の舞台は第二次大戦開始から約10年前のイタリアである。この当時、イタリアはベニト・ムッソリーニが既にファシスト党の党首として政権を掌握している。世界はNY発の「世界恐慌」で経済の大混乱状態にあり、ドイツではナチズムの影がひたひたと進行している。日本は不況を打破するため大陸に進出する企図を伺い、ソビエトではスターリンの大粛清が猛威をふるい、アメリカもイギリスもフランスも依然として恐慌の大疲弊から脱していない。大富豪、と呼ばれた東海岸の投資家が、次の日に拳銃で自殺するという時代である。
ポルコは何かの呪いによって豚になったのだが、豚になってからのポルコは決して殺しをしない。第一次大戦で飛行艇が空中戦の主役になり、多数のパイロットが戦死したことへの反省である。
何故ポルコは豚になったのか?この作品の根本テーマだが、「豚野郎」という言葉があるとおり、普通豚は怠惰と侮蔑の象徴である。操縦の腕前はぴか一なのに、人を殺すことも出来ず、ぷらぷらぷらぷらあーでもないこーでもないと、空を単に好きで飛んでいるだけのポルコは、一般的な飛行気乗りからしたら豚野郎である。
しかし、ポルコのそういうスタイルはかっこいいし、ポルコの周りには自然と人が集まってくる。
国家や民族と言うやっかいなスポンサーを背負うことなく、本来空とは自由に飛ぶべき空間である。軍人として敵を攻撃したり、規則や法に従う飛び方は、一見カッコイイことで、憧れの対象なのかもしれないが、それは本来の姿ではない。人を殺さない空の飛び方が不恰好では無くなった時、初めてポルコの呪いは解けるのである。
そして、ポルコは戦後、ジェット飛行艇でジーナとの約束を果たす(のであろう)。カーチスもフィオも空賊の親父もみんな、逞しくあの戦争を生き抜くのである。
文・古谷経衡(アニオタ保守本流)