デヴィッド・フィンチャー監督「ソーシャルネットワーク」〜史上最も成功したDT〜


 さて去る16日、われらがバルト9にてデヴィッド・フィンチャー監督の最新作・「ソーシャルネットワーク」を鑑賞してきた。かく言う私はデヴィッド・フィンチャー監督の大ファンである。世界的にも名高い、「ゲーム」「セブン」等を初め、「パニックルーム」「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」「ゾディアック」など私は氏の劇場公開作は全て鑑賞している。どちらかというと、寡作の部類に入る作家であるが、その作品は全て外れがなく、極めて緻密な映像演出力と感性の全てがこめられている。

 そんな氏の最新作が本作「ソーシャルネットワーク」である。筋はSNSFacebook」創設者を伝記的に取り上げた半ノンフィクション構造であるが、過去時制を現在の民事法廷から振り返るというしっかりとした帰納構成である。この時制の安定も流石はデヴィッド・フィンチャー氏である。「ファイトクラブ」(1999年)で”新鋭監督”と言われた彼は、「ゾディアック」(2007)以降、何か燻し銀のような重厚感がフィルムから滲み出してきており、最早巨匠の凄みさえ感じさせる安定感である。加えて全体的に暗いフィルターで明暗の輪郭を敢えてぼかす様なアンニュイな作画構成も個人的に氏の作品が大好きな理由のひとつでもある。

 氏の過去作を鑑賞した読者諸兄ならわかろうが、氏の作品からは何か”哀愁”とでも言おうか、言語化できない”せつなさ”と、”心地よい残尿感”の様な良い意味での物足りなさの絶妙なバランスを勘案して終劇するところがファンには堪らない。本作「ソーシャルネットワーク」にも例外なくその要素は含まれていて、ネタばれになるので詳細は避けるが、本作を劇中で見た方はお気付きだろうか。本作の最大の注目点は主人公マーク・ザッカーバーグ氏が「Facebook」が大成功し、富豪になっても決して笑わないことである。劇中彼は作り笑いを除いて一度たりとも笑顔を見せないのは、監督の意図的な演出であることは明白である。

 「Facebook」のそもそもの発端が、マーク・ザッカーバーグ氏が彼女に振られた事へのルサンチマンが元になっていることは劇中冒頭で描かれるが、これが本作の最後の最後まで尾を引く。いみじくも、みうらじゅん伊集院光の両先生が「DT気質は例え大人になって何人の女を抱こうと、どれだけ富豪になろうと変わることはない」と仰られている事を地で行っているのが本作の主人公マーク・ザッカーバーグ氏である。変質的で差別的で独善的で友達がいないマーク氏。同級生がパーティーをやっているときに、彼は自分の寮でひとりプログラムを書き、「Facebook」を立ち上げた。

 「友人は3人しかいない」とマーク氏は劇中で言う。冒頭で明らかになることだが、その数少ない友人3人からも訴えられ、絶縁されるマーク氏。しかし、彼の構築した「Facebook」は世界5億人の人々を繋いで現在も膨張し続けている。どんなに社会的に成功しても、どんなに仮想の世界でつながりを構築しても、現実の彼の孤独や虚無は払拭されない。寧ろ彼はそれを諦観している様にすら見える。だからこそ彼は最後まで笑うことなく、それを象徴する行為を無表情で行いつつ本作は終劇する。

 DT気質はいくつになっても治癒することはなく、人の孤独はどんなに仮想の繋がりが広がっても癒える事は無い。「Facebook」創設者を通じて、「世界史上最も成功したDT」を克明に描く、デヴィッド・フィンチャー監督の新たな代表作が誕生した。



追記*バルト9には4月公開の神山健治監督・攻殻機動隊SSS3Dの実体験ブースがあったので激写する。
 
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