さようなら自民党。さようなら戦後。自民党と萌えの共通性論


 さて、いよいよ衆議院議員総選挙まであと1週間を切ったわけである。8月24日現在、読売・朝日を始め、FNNや共同等でも「民主党過半数を大きく超え300議席超」「民主党330議席に迫る、自民党100議席割れも」という予測を立てているのであまり多くは語らないが、やはり予想通り民主党は単独で300議席を超えることは最早誰の目にも明らかである。衆院が解散されたのは遡る事7月の20日ごろであったが、そのころ私は民主270〜280、自民党130〜140と予想した。しかし、自民党に目だった選挙戦術上の落ち度もないのに、民主党への風は燎原の炎の如く全国に波及し、とどまるところを知らない。鳩山由紀夫氏が首班指名され総理大臣になることはほぼ報道各社の折込済みで、メディアの興味は早くも衆院選後の組閣人事に移っているといっても過言ではあるまい。賢明なる読者諸兄ならご存知のとおり衆院過半数は241、これを民主党が単独で制するのは確実として、問題は民主党が317議席に届くかということである。この317という数字は、衆議院の3分の2つまり「参院で否決された法案を衆院で再可決できる憲法規定の議席」である。これを超えれば、現在の自民党公明党が3分の2条項を使える権利をそっくりそのまま民主党が行使することになろう。なんとも皮肉である。民主党が317を超えると、仮に社民と国民新党との連立を組んだとしても事実上の民主党単独政権が発足する。そして来年の参院選で実質上の”ねじれ”は解消される。圧倒的な民主党議席数で政権は安定し、政界再編は起こらない。私はこう読んでいる。

 と予想屋の真似事はこれくらいにしよう。さて、繰り返しになるが8月30日の選挙で政権交代が起こる。これは確実であるが、わが国にとってこの政権交代は戦後初めて経験する衝撃である。55年体制によって成立した自民党は、象徴天皇制以上に、いわば戦後日本の象徴的構造である。55年体制以降、自民党はどんなに負けが込んでも衆議院で第一党の座から転落することはなかった。竹下内閣のときだったと思うが、リクルート事件の影響で参院選過半数を割って連立を組んだが基本的に首班指名する=総理大臣を選ぶ衆院選挙で自民党は1955年以来現在に至るまでただの一度も負けたことがなかった。唯一の例外は1993年の細川内閣成立のときである。この時は小沢一郎衆院選挙前に自民党から大量離党したことが原因で非自民の連立内閣ができたが、実はこの選挙でも自民党は負けなかった。というのも、離党した小沢一派を除く自民党は選挙前の議席を維持したからである。自民党が二つに分裂し、自民党A・自民党Bが誕生した。小沢がいたほうの自民党Bが数の理屈でかろうじて理論上の非自民内閣を作っただけの話であり、これらは「自民党の亜種」であり細川・羽田と1年を経ずして崩壊したことがその何よりの証左であろう。

 翻って、今回の衆院選自民党が分裂したわけでも自民党の有力者が離党して新党を作ったわけでもない(一部いるが)、わが国が始めて体験する純然たる政権交代である。はっきり言おう。これは革命だ。冷戦崩壊後、旧東欧の国々が相次いで共産政権を打倒し民主化を果たした。ソ連は地球上から消え、冷戦時代は終わった。しかし、アジアだけは冷戦構造が残っていた。それが日本の自民党体制である。最初に書いたが、自民党は戦後、そして冷戦の名残そのものである。いわば、自民党が消えるとき日本の戦後が終わる、と言って良い。永い永い戦後という時代があと1週間で終わる。それに立ち会えるのは少なからず興奮と感動を覚える。後世の歴史家は間違いなく1945年〜2009年をひとつの時代区分としてカテゴライズするであろう。良い悪いではない。これは歴史の必然である。一時代の終焉と始まりは過去の歴史が示すとおり宿命であり必然である。


 と、ここまでは現代政治学の基礎みたいなことを書いたが、当ブログは純然たるアニメ批評のブログなので今回もアニメと絡めて書こう。まず、話題になっていたアニメの殿堂(正式予定名称・国立メディア芸術総合センター)は民主党が政権をとった段階で計画中止し、浮いた金で母子加算にあてる方針(西日本新聞WEB)だそうだ。まったく結構なことである。アニメに政府が介入したら碌な事にならない、というか過去の歴史を振り返っても特定の産業を振興させるという目的で中央政府が介入したら絶対に失敗するという負のジンクスがあるのは明白である。農業然り、金融業然り、土建業然りである。自民党が保護する業界・産業は悉く衰退する。それは、中央政府に保護されることによって競争という概念を失うからに他ならない。補助金助成金漬けにし、財政支援を過重に行うことで他者と競合し、切磋琢磨する必要性を忘れた業種はからなずぬるま湯・護送船団という名の社会主義的体制の中で腐って自滅していく。アニメには政府が関与するべきではない。アニオタ保守本流としては当初から「アニメの殿堂」などもっての外、大反対である。しかも、いわゆる箱物を作ればそれで何とかなるというその冷戦的な発想自体、厳に糾弾されるべき思想であろう。自民党的思想とは、ハード偏重の思想である。とりあえず外見を拵えれば中身はどうでもいい。時代遅れの戦艦大和を馬鹿みたいな予算で作って結局坊ノ岬に沈めた戦時中の日本と何ら思想が変わっていないのではないだろうか。自民党がやるべきなのは土建屋に依頼してハードを建設することではなく、ことアニメに至っては行き過ぎた性的描写の規制すなわち児童ポルノ法の制定というソフト面での支援こそが急務であるが、その使命はどうも民主党政権下で実現しそうである。


 さて、私がもうひとつ強く言っておきたいのは自民党というのが戦後(冷戦)の象徴そのものであるということは先にも述べたが、これが当ブログが殊のほか敵視する”萌えアニメ””萌え”と密接につながっている事に他ならない事実である。先述の自民党的思想とは、もっと換言すれば『ムラ社会』的価値観の集大成である。アメリカという超大国核の傘に庇護され、外交的には特に自主自立の道を歩む必要もなくアメリカの付属国として政治的に穏便な国家として生きていればよかった。対外的に盲目的対米追従の一方で経済的には、極端な閉鎖政策を採った。先にあげた護送船団方式がその恒例であろう。既得産業・既得団体を手厚く保護する。その既得産業・団体とは農業・土建業・金融業・運輸業・医療医薬業その他ありとあらゆる業界である。これらに規制をかけ、各省庁に巨大な許認可権を与えて国内の産業を統制するやり方。彼ら既得産業・保護産業には経済的な優位性と排他性を特権的に付与し、新規参入をできるだけできないようにして利権を固定化させる。その見返りに集票という形での自民党政権の維持というなんとも豪胆なカラクリを考え付いた。対外的には西側の、自由主義経済国の一員と言っておきながら、実態は極端な中央集権型の閉鎖経済の体制を自民党は戦後ずーっととり続けたのである。週刊新潮の名コラム「戦時体制いまだ終わらず(文庫名・戦後日本経済史新潮文庫)」の著者野口悠紀雄氏にいわせれば、これは日中戦時当時に統制派といわれる社会主義的な経済官僚が主導した国家総動員体制(ナチス国家総動員法ソ連の計画経済をモデル)の残滓・戦時体制の名残であるというが、誠に的を得ている考察であるなと思う。この、戦後も連綿と続いた『国家総動員体制』は、冷戦という国際情勢が前提の下では実に上手く機能したが、冷戦が終わるとたちまち破綻することになる。ボーダレスの時代に国家総動員体制はまったくデメリットだらけの逆行する思想だからである。不幸なことに、冷戦が終わっても日本は国家総動員体制を何だかんだ言って維持した。国鉄電電公社や航空会社が民営化され、挙句最近郵便局まで民営化したが、国家総動員体制の下既得権と化した老人たちは後進の若者に道を譲るほど賢くもまた人格者でもなく、単なる己と己一族の可愛さだけのムラ的なエゴイストに他ならなかったからである。

 これら冷戦崩壊後のボーダレスという時代の変化にまったく逆行する自民党国家総動員体制は、当然のことながら日本国民のメンタル面にも深刻な影響を及ぼした。競争をしない、競合をしない、切磋琢磨しない。中央政府の庇護の下、何をやっても最後はお上が助けてくれるという安心感は当然ながらモラルハザードを招いた。国民はひたすら競争を忘れ、他者と競い合うことを避けるようになり、趣味的な洗練に走るようになる。ここで趣味とは何であろうか少し考えてみよう。釣り・登山・ゴルフ・パソコン・漫画・映画鑑賞…趣味と名のつく事柄に共通することは競争とは無縁の世界ということである。たとえばガーデニングが趣味ですという人は、誰かと競争して自宅の庭を着飾ろうという思想は基本的にはないであろう。趣味とは完全にクローズドされた自己満足の世界である。翻って、アニメにも同じことが言える。他者を意識することなく、仲間内のサークルだけでの理解・協調・和合だけが重視され価値観の上位に置かれることとなった。趣味的な洗練は競争や競合を原則的には必要としないので、1990年代以降同人誌が現在に至るまで活況を呈する事となる。同人誌や同人は趣味的な洗練の極地であり、仲間外からの評価や検証を必要としない。同人愛好家からの評価には傾聴するが、例えば投資家や株主からの評価というものとは一切関係がない。完全に閉鎖されたムラ的な集団の中での交流や内部だけの評価が重要視される事となった。これは自民党がやってきた護送船団という名の社会主義とまったく同じ現象である。


 事ここに至って、アニメ界の商業的作品にも同じような現象が起こるようになる。それが”萌え”や”やおい”に代表される腐女子であろう。”萌え”や”やおい”は外部からの評価や検証を必要としない。なぜならそれは趣味的な洗練に他ならないからである。アニメ作品の○○というキャラが萌え〜という感情を外国人に理解させる必要はない。彼らだけの、ムラ的な集団の中で消費すればそれで当事者も満足であるし誰も文句は言わない。”やおい”に代表される腐女子も基本構造はまったく同じである。この、ムラの中だけでの消費・評価という価値観は、先述したとおり自民党的価値観そのものである。競争・競合を必要とせず、目の届く範囲の狭い内輪(それも保護された)だけでの馴れ合いに終始する価値観、萌えこそは、まさしく自民党的価値観そのものではないだろうか。

 重大なのは、こういったムラ的ないわば内輪だけの”慰め合い”を正当化するために、彼らが本質的な部分を言い換えていることである。当ブログで何度も言っているように、萌えはポルノ(漫画ポルノ、アニメポルノ)であり、やおいに至っては”ゲイ”・”ゲイ漫画”である。しかし事の本質を隠し、己の行為を正当化するためにわざわざポルノを”萌え”、ゲイ漫画を”やおい漫画”、やボーイズラブなどと言い換え・偽装するところがもしかすると最大の問題なのかもしれない。

 これこそが、まったく自民党的思想の反映、勝谷誠彦氏の言う『偽装国家』の成れの果てではないだろうか。第二次大戦中の1943年、ガダルカナル島から撤退した日本軍をして大本営は「戦略的転戦」と称した。本当はずたずたの敗北なのに、負けではない・自発的な選択なのだと偽装して彼らは「転戦」という便利な言葉を創作した。それ以来、ず〜っと日本人は物事の本質を隠し、物事の本質を自身に都合の良いように解釈させるための偽装的まやかしとしてこの便利な言い換えと言う手法を現在に至るまで繰り返している。いわく、軍隊を自衛隊と言い換えているのを筆頭に、敗戦を終戦占領軍を進駐軍アメリカへの献上金を思いやり予算うさぎ小屋をマンション売春を援助交際、最近では言葉の原義まで歪曲して下北のせまいが小奇麗な2DKに住んでいるだけでセレブ・プチセレブなどという、欧米人が聞いたら爆笑されそうな悲惨な言い換えを行って、現実を見ないように見ないように自分で自分に刷り込み洗脳を行っている。合コンを婚活、ひ弱な男を草食系男子、若年失業者をニート、暴行・傷害・恐喝をいじめ、と言い換えたところで当たり前だが日本の破滅的現実が変わるわけではない。現状を変革する努力をまったくしようとせず、言葉だけを置き換えてお茶を濁すこの国の体質。”萌え”はポルノの言い換えであり、ポルノを”萌え”と言い換えさせて幅かならないこの国の風潮こそがまさに自民党の戦後国家総動員体制の弊害そのものではないだろうか。もういい加減、こんなの終わりにしないか。こんな腐った戦後をわれわれの意思で終わりにするときが来たのではないだろうか。

 かわぐちかいじの名著(古典?)「沈黙の艦隊」で、原潜独立国家「やまと」の艦長にして主人公・海江田四郎の台詞に以下のようなものがある。「嵐の中の自由か、監獄の中の平穏か」。私は今こそこの海江田四郎の問いに日本人が直面しているときであろうと思う。世界最後の社会主義国家・日本。あまりにも永く続いた自民党国家総動員体制は、温く甘美であった。それは正に母親の胎盤のようなぬくもりであったであろう。しかしその胎盤は最早崩れ去っている。自民党という母親は死んだ。母の屍を乗り越えて遅すぎる船出をするときが来たのだ。”萌え”などと言う自民党的価値観を捨てさり、わが国民に真の自主自立の精神が根付くまでに相当の時間がかかるであろうが、まずはその第一歩が8月30日であることは間違いない。


※表題のイメージ絵は、何処の誰かは知らないが、無断転載自由とあったので今回のコラムイメージにぴったりだったので使わせていただいた。絵師さんに礼。

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