「バクマン。」アニメ化〜愛、震える愛。それはまんが道。NHK教育全国放送の意義〜

 さて鳴り物入りで始まった10年代も早いものでもう一ヶ月が過ぎた。鳩山首相は相変わらず友愛を説き、小沢一郎東京地検と死闘を繰り広げている。まぁそんな事はどうでもいいのだが、この世知辛い世を読者諸兄は如何お過ごしだろうか。

 古いニュースで恐縮だが、漫画「BAKUMAN(以下バクマン。)」(原作・大場つぐみ,画・小畑健)がアニメ化するという。しかもあろうことか放映はNHK教育である。⇒NHKアニメワールド。これは否が応にも期待しないわけはないのであるが、食わず嫌いとでも言おうか、実は管理人はこの「バクマン。」という漫画はその存在こそ従前から知りつつ、最近まで読まずに放置していたのであった。周囲から面白い、面白い、という声を聞くたび「でもジャンプなんでしょ?」という定冠詞で反論していた。なぜなら私にとって「ジャンプ」は殊更「萌え方面へ転向」しつつある悪の雑誌として認識されていたからに外ならない。

 勿論フォローではないが、私はジャンプで連載されている主力漫画「ワンピース」「NARUTO」「BLEACH」「REBORN!」あたりは一応読んでいる。読んでいるが、しかし大衆少年漫画誌の宿命だろうか、これら看板作品は非常に二次創作(しかも低級な)として登場する割合が高く、またネット等でそういったキャラクターの、例えば「テニスの王子様」等を端緒としたBL化をみるにつけて残念至極、無念の涙を禁じ得なかったのである。とりわけ昨今で酷いのは矢吹健太朗氏の「ToLOVEる」であり、これなど当ブログが敵視して止ま無い「アキバ層」に媚を売る典型的な低俗ポピュリズムの極みであろう。嗚呼,ジャンプ黄金期のあの眩いばかりの閃光何処に去りしや。などと昔はよかったなぁ的論調でしかなかった昨今ジャンプの評価が、この「バクマン。」によって180度、いや惑星直列並みの怒髪天を衝く衝撃と共に変革され、怒涛の如き感動が我が身に降りかかろうとは何たる皮肉であろうか。

 この「バクマン。」という漫画、よもや名も知らぬという読者諸兄はおるまいが、端的に内容を述べると基本的には藤子不二雄A先生の金字塔的名作「まんが道」の基本構造を踏襲している。ただ、「バクマン。」が「まんが道」と違うのは、才野茂満賀道雄の様に、両方原作と作画の才能を併せ持つコンビではなく、「バクマン。」のサイコー(真城最高)とシュージン(高木秋人) は、それぞれ前者が作画・後者が原案(原作)と完全分業制を敷いていることにある。この人物設定は、むしろ「まんが道」よりもパロディ漫画に於ける日本史上最高の傑作と言っても過言ではない「サルでも描けるまんが教室(通称サルまん)」の相原コージ(作画)と竹熊健太郎(原作)の関係に極めて酷似している(尤も竹熊は一応漫画的なものを描く最低限度のセンスは持ち合わせているのだが…⇒「じんじん君」とか。サルまん愛好家にだけ分かるネタで恐縮である)。


*パロディ漫画に於ける日本史上最高の傑作「サルでも描けるまんが教室*通称サルまん」。現在は愛蔵版(上下巻2冊)が求めやすい。

 この、作画・原作の完全分業という、正に織田信長兵農分離的近代合理主義コンビが、「まんが道」宜しく漫画家としてデビューし、その後どのような艱難辛苦を迎え、そして乗り越えて行くのかが本作の醍醐味である。何のことはない、作画のサイコーは本作作画の小畑健、原作のシュージンは本作原作の大場つぐみガモウひろしで確定)のメタキャラであり、そして決定的に興味深いのは本作自体が集英社に於けるジャンプ編集部と作家の関係性をも内包する『漫画雑誌メタ漫画』であるという点であろう。作家と編集者の関係は勿論、アンケート順位のからくりやシステム、そして読者が知る由もない最高意思決定会議である連載会議(新連載と連載終了作品を決定する、いわば御前会議である)の内幕など、『この内容をよくジャンプで連載したな…』と驚嘆するほど緻密なメタ漫画としての驚異的な完成度を誇っている点に尽きよう。そしてこの内容とレベルは最早ジャンプという少年誌の範疇を遥かに超えている。単行本購買層に限れば、読者層も青年誌並みの高年齢であろう。また、TBSラジオ・ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフルで宇多丸師匠が映画「アンヴィル!夢を諦めきれない男たち」で仰っていたことそのままだが、漫画内漫画作品、いわゆるメタ作品を余り懇切丁寧に描写しないところも巧妙である。何故なら、メタ作品の設定に凝りすぎるとそのメタ作品の好みによって作品本体の評価に影響が及ぶからである。(前述のサルまんの「とんち番長」は別格だが)メタ作品の描写は最低限に、あくまで人物群像に特化した構成が秀逸である。

 本ブログは純然たるアニメ批評のブログなので漫画作品概説はこの位にしておくが、私はこの「バクマン。」が2010年秋よりアニメ化されるにあたって、テレビ東京など民放局ではなく、あえて「NHK教育」枠として放映することの意義を声を大にして言いたいと思う。はっきり言うが、誰が決めたのか知らないが、この「バクマン。」をNHK教育で放映するのは今世紀最大の英断ではないだろうか。読者諸兄も御存知の通り、我が国の民放局で放映されるアニメは、首都圏や関西圏・中京圏など大都市圏以外ではネットすらされていない作品が数多く存在する、いわば我が国に於ける「アニメ放映格差」が生じていることはご存知のとおりである。同じテレビ東京系列でも、まず関東圏で先行放映し、他地域は1週遅れ、1ヶ月遅れ(または変則時間帯で)というのもざらである。またTOKYOMX等になると、関東圏でも東京23区内とその隣接地域しか視聴できない地理的制約があったりと、アニメ放映に於ける地域格差は昨今ますます顕在化していると言えよう。

 その現状にあって、この「バクマン。」が国営放送に等しいNHK教育のアニメワールド枠で放映されるということは、すなわち端的に申せば、北は北海道稚内(書類上は択捉島だが日本人住んでません笑)から南は沖縄県与那国島まで等しく我が国の1億3000万国民同胞が平等に享受し得るアニメ作品であり、これをして本作が視聴者に与える影響力は通常の民放アニメの何たるかよりも遥かに強大であると言う事である。

 私が「バクマン。」に驚愕したのは、その「漫画雑誌メタ漫画」が斬新且つ情報量の濃密性(読んでいて疲れるほどに!)であること、若しくは作者の投影としての「まんが道」をジャンル的頂点とする「メタ漫画家漫画」としての完成度が極めて高いからだけではない。むしろ私は本作の1巻・2巻を読むにつけ不遜ながら違和感を持った。主人公・サイコー(真城最高)の亡き叔父がギャグ漫画家という設定であり、叔父の死後、そのままにしてあった仕事場(マンションの一室)を漫画家を目指すまだ中学生のサイコーとシュージンがデビューしてもいないのに、執筆場所として自由に使えるというその設定自体が余りにも都合が良く、また昨今の経済情勢を鑑みれば如何せん出来すぎていると感じた。更に、二人が特に下積みとしての挫折を経験しないうちから早晩良心の編集者に認められ、特に躊躇なくデビューして行く様など余りにもファンタジーであるなと首をかしげたくなった。しかし、3巻・4巻と読み進んで行くうちに状況が変わった。読み進めて行くのではない、自然と作品に「読まされて」いた。

 30代半ばに差し掛かった万年アシスタント(12年間)の中井という男が登場する。中井はお世辞にも美形とは言えない(そう、この漫画には美形でない人間が沢山出てくる)ビール腹の男。自分より遥かに年下のサイコー(高校生)に向かって「売れたいよ、売れて女にモテたいよ」と愚痴をこぼす様な古典的な駄目男として描かれている。この中井が、いよいよデビューの切っ掛けを掴みかけるが、蒼樹氏という女性原作者に「方向性が違う」と愛想をつかされて、一方的なコンビ解消を宣告される。しかし中井は諦めない。毎日「貴方のマンションの窓からから見える向かいの公園で漫画を描きます、貴方の世界を絵にしたいのです」と中井は真冬の極寒の中、公園のベンチで漫画を書き続ける。このままでは凍死する、と仲間が止めるが中井は聞かない。全然寒くなんか無いよ、寧ろ身も心も熱いよ、と。公園を根城にする不良に「マンガオタク」と嘲笑され、暴行を受けるが手だけは庇いそれでも中井は漫画を描くのを止め無い。手足は凍え、鼻汁は凍てつく。目は霞み、頭は朦朧とするだろう。しかし中井はやめない。絶対にやめない。遂に蒼樹氏は雪降る中井の傍ら寄り添い傘を指す。コンビ解消を撤回したのである。

 私はこのシーンで止めど無く涙がこぼれた。これは漫画オタクの、いや全てのオタクと名の付く人間たちに対する大場つぐみ氏と小畑健氏の、これがその回答であると。ここに私は揺ぎ無い無限の「愛」を感じた。無論「愛」とはセックスに非ず。全てに通底する漫画への「愛」がこの作品の至る所にこれでもかというくらい凝縮されている。生きることとは、まるで漫画を描くことだと言わんが如く、この作品の全てに愛あり。漫画への愛あり。しかしそれでも狂おしいほどの「愛」ここにあり。

 私は思う。テレビ曰く新聞曰く、したり顔の知識人曰く。今の若者は無気力で保守的で、リスクを嫌うと。それに対し私は声を大にして「否」と反する。「時をかける少女」のマコトが未来へ向けて「今」を見事に走ったが如く、現代の10代・20代の若者は自明のごとく与えられたこの黄昏の帝国の中を必死で駆けようともがいている。しかし、心ないこの国の既成の大手マスメディアは、ひたむきに努力している人を中々フレームに納めようとしない。何故なら時として命を賭け懸命にもがく若者は眩しすぎて、彼ら旧弊の巣窟であるマスメディアとその体制を微温的に支えるこの国の一部国民の人心を悪戯に不安にさせるからに外ならない。彼らは輝く若者を観る事を好まない。それは、他人の経済的苦境や不幸、相対的不遇を横目で見て「あいつに比べればまだ自分も大丈夫」と溜飲を下げる事のみを良しとすることでしか己の価値観を見いだすことの出来ない、悲惨な価値観が蔓延しているからである。

 いつのまにかブラジル移民に於ける第二次大戦終結の解釈だった「勝ち組」「負け組」という言葉がこの国に於ける人生的価値観の尺度のひとつとして一人歩きするようになった。「ニート」「引篭もり」「新たな貧困」「格差社会」などと目新しい造語を並べては、「報道特集」等と銘打ってこの国の既成の大手マスメディアがさもにわかドキュメントタッチで彼らに無思慮なカメラを向け煽り立てる。何のことはない、先に述べたとおり彼らは自分よりも格下の人間を見て安心したい、ただそれだけである。カメラはいつも新しい溜飲を下げる対象を捜索し、国民の一部は確実に彼ら既成の大手マスメディアのそういった行動を内心では支持し、欲し、喝采を送っている。表向きでは「うーん、格差は解消しないと。セーフティネットを…」等と言っておきながら内心では比較優位の瑣末な優越感で安堵しているのが隠しきれない本心ではないのか。

 もういい加減そういうのやめにしませんか。私が先に述べた「バクマン。」がNHK教育で全国放送される意義はここにある。「バクマン。」には漫画を心の底から愛する若者しか出てこない。生半可な覚悟の人間は、作家も編集者も誰ひとりとして描かれない。これは、大場つぐみ氏・小畑健氏の作家的良心に他ならない。いわゆる「萌絵」ばかりを描く石沢という同級生を、サイコーとシュージンが徹底的に馬鹿にしているのも、この御両人の作家的良心を如実に反映した顕著なるものであり、私はこの描写にも極めて好感をもった。

 「今時の若者」と括られる、決してモチベーションの高くない若者が安直に目指す、立身出世・経済的栄達の対象とされているものは何だろうか。それは例えばお笑い芸人や、はたまたホストやキャバクラ嬢等、愚にもつかない安直な目標が見逃せないほど散見される(若しくはそれを潜在的に煽っている既成の大手マスメディアの構図か)。私は別に左様な職業の存在自体を否定しているわけではないが、結局の所私はこういった職業で例え一定成功しても、そしてそれをモチーフにした作品等に一切何らの感銘も受けないのは、基本構造は彼らをしてそれ自体が消耗品であるからに他ならない。そこで小銭を、多少の名声と羨望を手にしたところで、基本的にそこに物語は無い。数年後には人民の脳裏から綺麗に忘れ去られるだけであろう。しかし、手塚治虫先生の漫画が先生の死後をして今なお人類史的な金字塔としてその輝きを失わないのと同じく、アニメや漫画、勿論小説や音楽・絵画・彫刻にもだが、「作品」は不滅である。「バクマン。」のサイコーは1日3時間しか寝ず、肝臓をやられながらも、それでもなお「連載に穴を開けられない、読者が待っている」とペンを離そうとしなかった。顔を観たことも無い無名の読者に対するこれほどの責任感と執着は、正しく「愛」以外の何者でも無い。手塚先生も「連載を楽しみにしている子どもたちのために」と病の体に鞭打って超人的な闘志で筆を進めたのは余りにも有名であるが、それが為に手塚先生のお体を結果的に蝕むこととなったのかも知れない。正に命がけの「愛」。「愛、震える愛。それはまんが道である。

 仲間と共に、時として一人孤独に、何かひたむきにひとつの大目標に向かって突き進む若者たちが、今この瞬間にもこの国には存在する。確かに、お笑い芸人もホストもキャバクラ嬢もいいだろう。いいだろうが、しかしどうかお願いだからサイコーとシュージンのような、表立って声を発さない若者にこそスポットを当てて欲しい。今日本に必要なのは一過性の消耗品としてテレビ制作費のコスト削減に使われるお笑い芸人でも、ドラマや携帯小説の題材に安直に使われるホストでもキャバクラ嬢でもない。成人式で暴れる声の大きな若者たちだけにカメラをフォーカスする今の日本は間違っていると私は断言したい。今日本に必要なのは、サイコーとシュージンの「愛」、何者にも動じない、震えんばかりの「愛」。万人に共感され、未来永劫文化として通底する「愛」。そこにこそ脚光を当てるべきではないだろうか。本作の様な命を賭けて「愛」に生きる若者の姿こそ、真に我が国が今最も必要とする人間本来の姿であり、全国民が共通してNHK教育で等しく観ることの出来るアニメ(漫画)作品としてこれ以上相応しいものも無いのではないだろうか。NHK教育での全国均一放送の意義は正にここにあると断言していいであろう。


 アイドル・歌手・声優等、多方面で御活躍中の中川翔子氏(何を隠そう、大場つぐみガモウひろし説を裏付ける、タイトルの隠し妙味「RAKIIMAN」を最初に公言したその人である)はこの「バクマン。」について氏自身のブログにて次のように語っている。


●「仮に私が中学生時代、この漫画に出会っていたなら漫画家を目指したであろう」(要約)


 無論、中川氏の通り私もこの作品に多大なる感銘を受けた。しかしだからといって、私はこの漫画を読み漫画家を志すことはない。ないが、しかしこの漫画は究極的には漫画の話ではない。「BAKUMAN」とは、正しく「爆発するMAN」の意ともとれる。仕事でも進路でも資格でも個人的な目標でも何でも良い。そして勿論、声優を目指す亜豆美保の様に女でも良い。MANとはHUMAN、人間である。命を賭けよ。そして己が信ずる道を愛せよ。この「バクマン。」という作品は、これを読む、若しくは観る、全ての人間に向かって放たれた狂おしいほどの応援歌に他ならない。

 願わくば今秋のアニメ化を切っ掛けに、更に多くの日本全国のうら若き文化同胞が、この作品によりそれぞれの道を不屈の信念で歩まんとする決意を新たにすることを。私もサイコーやシュージンに負けてはいられない。ついそんな気にさせられる、近年稀に見る大傑作のアニメ化が待ち遠しい。


*関連記事
バクマン読みましたたけくまメモ(09.1.6)
バクマンのネーム原作について同上(09.1.8)
サルまんVSバクまん野郎アニメ総合研究所(09.11.26)
「バクマン。」「サルまん」「デスノート」「野望の王国」の奇妙な縁AYS(08.8.4)


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