特集〜ガラパゴス化する日本と萌えアニメ〜

 

 突然だが、読者諸兄の中には昨今「ガラパゴス化する日本」とか「ガラパゴス(化)」という単語を耳にすることが増えている方も多いのではないだろうか。耳に馴染みの無い方のために敢えて説明させていただくと、「ガラパゴス」とは当然の如く地名であり、南米エクアドル共和国の海外領土「ガラパゴス諸島」に由来する。赤道直下で絶海の孤島であるこの諸島は、外界と隔絶された為に、小さな諸島の一つにも関らず他の大陸とは全く異なる独自の進化を遂げた生物(ガラパゴスイグアナ、ゾウガメ等)が生息していることで知られ、NHKの「いきもの地球紀行」等の動物番組で取り上げられることも多かろうと思う。

 この「ガラパゴス諸島」の、外界から隔絶されたが故に独自の進化を遂げた生態系、そしてそれが故に外部環境の変化に弱く、生物種として脆弱になってしまったという現象が、いま正にわが国・ニッポンの置かれた状況に酷似しているとして、その論を平易かつ体系的に纏めた新書が今、ベストセラーとなっている事はご存知の通りであろう。


ガラパゴス化する日本(講談社現代新書)吉川尚宏

 本書は、野村総合研究所の「ガラパゴス化する日本」という同名タイトルのコラムに筆者が大幅な加筆修正を加えたものである。本書では、1980年代を筆頭に、かつて世界市場を席巻した日本企業・製品が、90年代以降の「失われた10年」若しくは「失われた20年」の間に、国際的な規格や国際的な基準から逸脱し、全くドメスティック(つまり日本国内向けの市場)に焦点を当てた「独自の進化」を遂げたために、気が付いたときには著しく国際競争を失ってしまった例を、特に携帯電話端末を筆頭として電子マネー(電子決済システム)、そしてファクシミリカーナビゲーション端末等を例に挙げながら説明している。

 ここで詳しく本書の内容をレビューすることはしないが、極めて重要な事は、本書の中で繰り返し述べているように「失われた10年(20年)」の間、日本の製品やシステムが退化したり衰微したりしたから、それらが国際競争力を失ったのでは無くて、寧ろ日本風に洗練し過ぎた為にそれら製品やシステムがガラパゴス化し、著しくその競争力を失ったという点であろう。

 「洗練」したが故の衰退。本書ではこの日本特有の現象を経済や産業サービス論として提起しているが、私は何かこのガラパゴス化に強烈な既視感を憶えずにはいられなかった。ガラパゴス化の問題は、このような経済論だけではなく、国際競争に晒されない、競争を忌避する傾向が最近の日本人に存在し、それが例えば「草食系男子」という風潮や日本人の海外留学者の減少という統的数字計に現われていると著者は述べている。いわば日本人のメンタリティーそのものもガラパゴス化を辿っていると言うことだが、私はそればかりではなく、もっと本書の論を延伸させると、そのようなガラパゴス化現象はわが国に於けるカルチャー、そしてその代表格と言って良いアニメーション作品やアニメファン(オタク)界を取り巻く現状の末端まで深く進行していると思われてならない。

 すなわちガラパゴス化とは、ムラ的な市場の中で独自に進化した製品・サービスが、国際的には全く通用しないという状況の事を指し、転じてわが国アニメ界に於けるガラパゴス化とは、ムラ的な市場(日本国内ないしアキバ文化)の中でしか通用しない前提を共有する作品=萌えアニメであると定義したい。

 当ブログ・アニオタ保守本流が従前から敵視(?)している、「萌えアニメ」こそが、わが国におけるカルチャーのガラパゴス化の象徴であるとしたいが、その論拠を順に述べようと思う。


 拙作ながら、ここでアニオタ保守本流管理人である私が当ブログを開始するにあたっての指針として「本当に良いアニメだけを後世に残そう(はじめにお読みください)」を書いた。ここを少しだけ要約させていただくが、何故「萌え」や「アキバ」がわが国アニメの水準を低下させるのか。その理由として「日本人の(それも一部)でしか共有されないムラ社会的な価値観が萌えアニメのお約束」であり、それらは世界に理解されない独自の価値観であり、普遍的なメッセージ性を内包していない。このような「萌え」や「アキバ」という価値観は刹那的な一時の消費欲の発露に他ならず、後世に残る真に文化的な作品を残すことなどできない、という内容であった。(詳細はリンク先を参照)

 もっと深化させると、昨今の「萌えアニメ」と呼ばれる各種の作品のなかには、極めてガラパゴス的な記号が登場する。いわばそれらは巨乳であったり、眼鏡の少女であったり、幼馴染であったり、巫女さんであったり、ツンデレのヒロインであったり、何か記号的な「萌えのお約束」が散りばめられている。これはある種アニメにおけるガラパゴス化の端的な部分であろう。何故なら当然のことだが、これら「萌えアニメ」は極めて日本的なある種の「内輪ネタ」に過ぎず、視聴者に対してムラ的な価値観の共有を前提とした作品であるからに他ならない。そして製作者もそれらを暗黙の共有知として認識しており、端的に言えば「内輪ネタを内輪で共有し消費する」極めてムラ社会的な、まさしくアニメに於けるガラパゴス化が進行する状況に陥っている。敢えて具体名を挙げるならば、その代表格が京都アニメーションの「らき☆すた」であろう。

 私は本作の映像表現的な部分を高く評価している旨は当ブログで書いたとおりであるが、では本作が国際的な輸出(つまりは、日本人以外のユーザーの視聴)に耐えられるのか否かと問われるとすれば即答で否である。本作「らき☆すた」は実に効果的で緻密な「内輪ネタ」の共有知が散りばめられている(それは京都アニメーションの確信犯としての演出である)。本作で主人公らが電車に乗ってコミックマーケットに向かう描写などはその極地である。当たり前のことだが、日本人以外のユーザーにこの作品を見せたならば、10人に10人が「何のことだか分からない」で終わるであろう。しかも、より言えば同じ日本人の中にも「何を言っているのかわからない」(「内国ガラパゴス化」、後に詳述)という感想を持たれるユーザーもいるであろう。当然のこと本作は、コミックマーケットや巫女さん、ツンデレといった「萌え的な記号」を視聴者が共有していることが前提に構成されている作品だからである。それら極めて日本的でムラ的な前提が共有されていない、例えばドイツ人やブラジル人に対し「らき☆すた」ひいては「萌えアニメ」の面白さは全く伝わらないであろう。

 更に京都アニメーションの作品群を例に出すと、当ブログのネットラジオ企画ニコニコアニメ夜話批評記事などでも時折取り上げる「涼宮ハルヒの憂鬱」にも「萌え的な記号」が散りばめられている。長門さん、ハルヒ、みくるちゃん…彼女たち登場人物は作中でハルヒをして自らが言うように「萌え的な記号」に他ならない。これら記号の共有、即ち活発な美少女ヒロイン=ハルヒ、眼鏡で寡黙な美少女=長門、巨乳で天然少女=みくる、といういわば内輪のお約束の共有無しにはこの作品がこれ程までに受け入れられることは無かったであろう。我々日本人のユーザーはこれら内輪の、ムラ的な記号の共有にはなんら抵抗は無いが、もし一歩外に出たならばこれら「萌え的な記号=内輪ネタ」がたちまちの如く日本だけで通用して世界では通用しない、即ちガラパゴス化するのは言うまでもないのである。


 前項で例に挙げた京都アニメーションの「らき☆すた」や「涼宮ハルヒの憂鬱」といったわが国の「萌え」や「アキバ文化」を代表すると目されるアニメーションが、如何に日本人にしか通用しない萌えという内輪ネタの共有を前提として構成されている作品で、それらが国際的には全くガラパゴス化した作品であり、国際競争力を持たないムラ社会向けの作品であるかを示すデータを掲載したい。

 ここで参考にした「IMDB」とは「Internet Movie Database」の略称であり、欧州の主要国(イギリス・ドイツ・フランス・イタリア・スペイン・ポルトガル)とアメリカで開設されている世界最大の映画(アニメ含む)のデータベースである。古今東西の作品の全てはここにデータ収蔵されており、果てはイランやモザンビークの映画から日本の小規模公開アニメに至るまで、ありとあらゆる映像作品がアーカイブ化され、日々更新されている。ここで評価される(投票者数が多い)ことは、その作品の国際的認知度が高く、かつ国際的に評価されている作品と言って良いであろう。

 一見して分かるように、上位にランキングされているのは往年のスタジオジブリの名作傑作であり、そこに押井守大友克洋今敏庵野秀明細田守等と言ったいわゆる「ジャパニメーション」の極めて質の高い傑作を排出した作家たちが軒並みランキングされているのが分かるが、前述のアニメに於けるガラパゴス化の代表格である「らき☆すた」および「涼宮ハルヒの憂鬱」は投票者数において圏外であり、極めて例外的なユーザーから比較的高評価を得ているといった感触に似すぎない。日本の高等学校を舞台とした「涼宮ハルヒ」はまだしも(投票者数1,000人台)、あくまで日本におけるアキバ的内輪ネタの共有を前提とした「らき☆すた」が、国際的には日本を代表するアニメ監督の巨匠たちとダブルスコアの差をつけて認知度が無いとは冷酷な現実であろう。これだけ日本国内において一部のアキバ系のユーザーが聖地巡礼」までして盛り上がった「らき☆すた」が、国際的知名度・認知度の欠片も無く、如何に日本に於けるアニメのガラパゴス化が顕著であるか、その代表格であることを身を以って示している。もちろん、本表に登場しないほかの萌えアニメの認知度がどうであるのかは論を待たない(無論圏外)のである。

 このようなランキングを見ても分かるように、普遍的なテーマやメッセージ性が内包されている作品は必ずといって良いほど上位にランキングされ、内輪での共有を前提とするガラパゴス的なアニメ=萌えアニメは全く認知されていないことが顕著であろう。また、決して完成度の高くない作品は、売り込み(プロモーション)の攻勢が優秀であっても、極めて低い評価しか得られていない(上図「ゲド戦記」、IMDB指標6.0台の例)事実も、この「IMDB」の信頼性に寄与している。つまり、リテラシーの低い外国人が恣意的に評価しているランキングではなく、真に普遍的で良心の作品は、例え受け手が日本人でなくとも高い評価と認知度を獲得しうるという厳然たる事実が現われている。


※「聖地巡礼」「らきすたみこし」までして盛り上がった「らき☆すた」も、残念ながら国際的認知度はゼロ。その理由は、前述の通り日本的な「内輪ネタ=萌え的な記号」の共有を前提として構成された作品だからに他ならない。

 無論、フォローするわけではないが、ここまで私は京都アニメーションと「らき☆すた」や「涼宮ハルヒの憂鬱」をアニメに於けるガラパゴス化の筆頭のように扱って、まるで諸悪の根源であるかのように述べているが、当ブログの過去記事(涼宮ハルヒの憂鬱・12話ライブアライブ・フィルムに具現化された奇跡)や、拙作のラジオ企画「ニコニコアニメ夜話」の第3回放送および第15回放送でも京都アニメーションの映像的演出の圧倒的クオリティを極めて高く評している。しかし前述の内容とリンクするが、京都アニメーションの作品群や「らき☆すた」は作品として極めて洗練された内輪ネタの質的上限であるに過ぎない。洗練されているが故に起こるガラパゴス化。まさに「らき☆すた」がアニメに於けるガラパゴス化の代表格と述べたのはここに原因があろう。


 しかしながら、ここまで読まれてガラパゴス化の何が悪いのか?と思う読者諸兄もいると思われる。内輪で固まって、ムラ社会でぬくぬくと馴れ合って何が悪いのか。何も悪いことは無いではないか。そう思われる方も多かろうと思う。

 私もいま、この記事を書いている時代が1960年代とか1980年代後半とか、未だわが国が光り輝いていた時代なら何も問題視しないであろう。事実『ガラパゴス化する日本』の著者、吉川尚弘氏も同著作の中でこう述べている。

『世界でもっとも巨大なガラパゴス国家はアメリカである。なぜアメリカはガラパゴス化しているのに生き延びているのか。それはガラパゴス化したまま人口が増え続け、国内市場が拡大し続けるからである』

 と。つまり国際基準と乖離し、内輪で独自の進化を遂げたとしても、その内輪のムラ的社会自体が拡大し続けるとするなら何の問題もないと言うことである。もしも日本という名の「パイ」が、年率5%程度づつ拡大(高成長)していくなら、このままガラパゴス化も甘んじて受けよう。しかしながら、読者諸兄もご存知のように、わが国は世界で例を見ない少子高齢化と人口減少社会を迎えている。今の時代が1960年とか1980年代ならばよ問題無い、としたのはこの為である。減り続ける人口。しかもそれに併せて生産年齢人口も減少を続ける。購買層の絶対数がますます減り、「日本」という市場がじわじわと縮小していった90年代以降。この流れは今後も止まりそうもない。なまじ1億3000万人と言う、世界屈指の大人口(そしてほぼ同数の中産階級)と大消費地帯を抱えた日本は、今まではガラパゴス化したままで良かった。しかし最早1億3000万の縮小し続けるパイだけではわが国は立ち行かなくなってきているのは、各種の国際的統計データ(名目GDPの推移、一人当たりGDP順位の低落、国際競争力ランキングの凋落等々)が如実に示す正にその通りであり、アニメを含むわが国に於けるコンテンツ産業の命運も、まさに縮小し続けるパイの外に向かって如何にコミットできるか。こここそにあるのではないだろうか。

 かように人口減少=市場規模の縮小(この両者は不可分である)が起こり続ける以上、わが国におけるコンテンツ産業、そしてそれに内包されるアニメ界に於いても、国内市場だけを相手にしていては、いずれ滅び行く運命であることは火を見るよりも明らかであろう。ここに「日本のアニメは本当に世界一?本気の世界戦略が生き残りのカギ」にから興味深い一文を引用しよう。

 『海外市場における(コンテンツ産業の)売上依存度は米国の17.8%に対して(日本は)僅か1.9%と遠く及ばない。これは、これまで日本のコンテンツ産業国内需要に支えられてきたために、海外市場の開拓が非常に遅れていることを示している』(詳細は下図)

 この事からも分かるように、従前述べた国内市場だけに目を向けた内輪ネタのガラパゴス化した日本の萌えアニメは輸出に耐える事が出来ず、縮小し続けるドメスティックなパイ(国内市場)を奪い合うこと以外、生き残る方策は無い。そうなってはガラパゴス諸島に生息するイグアナが共食いをして自滅するかの如く、わが国のアニメ界全体が縮小し、やがては滅亡の一途を辿る事は自明ではないだろうか。


 では、このアニメに於けるガラパゴス化から脱出し、真にわが国のアニメーションが国際輸出に耐え、本当の意味での輸出産業に値するにはどうすれば良いのであろうか。『ガラパゴス化する日本』の著者、吉川尚広氏は脱ガラパゴス化へ向けた方策として「出島シナリオ」を考案した。簡単に紹介すると、日本全体が一挙に脱ガラパゴス化へ向けた改革に邁進するのは現実的ではないので、ここは江戸時代の長崎における出島のような特別経済区(企業でも良い)を設けて、まずはそこから脱ガラパゴス化に向けた国際標準の競争を先行して始めよう(成功すれば全国へ拡大)という試案である。この考え方をアニメ界に置き換えるとどのようなことが言えるだろうか。アニメ界における脱ガラパゴス化へ向けた出島。それはすなわち、前述の「らき☆すた」に代表される内輪ネタの共有を前提として構築されたアニメ、すなわち萌えアニメではない、真に良心・良作の、作家性の強い秀逸なアニメ作品を評価することではないであろうか。もちろん、その筆頭は前表の通りスタジオジブリ宮崎駿)や押井守監督になろうが、そのような過去の傑作ばかりを懐かしんでいてもアニメ界の将来に渡る活性化は無い。萌えアニメではない、真に作家性の強いテレビアニメシリーズや、最新劇場公開作の中にある優良たるアニメ作品の積極的な応援と評価こそが、アニメにおける脱ガラパゴス化の方策の唯一にして最大の方策ではないかと考える。

 そのひとつの例が、当ブログでも再三再四取り上げているフジテレビの「ノイタミナ枠」であろう。

 『普段アニメを見ない大人の為のアニメ』と銘打たれたフジテレビの同枠は、現在わが国で最も先進的で洗練された真に良質なアニメ作品をコンスタントに提供する注目の時間帯である。代表作を言えば、当ブログで取り上げた「東のエデン」の興行的大成功を筆頭に、「のだめカンタービレ」、「もやしもん」、「東京マグニチュード8.0」、「空中ブランコ」、「四畳半神話大系」等、わが国が誇るアニメ技術の才能の粋を集めて製作された傑作のラインナップが目白押しである。少し前の政府(麻生内閣)は、「萌えを輸出する」等と馬鹿げた妄言を吐いていたが、輸出するなら萌えではなくて「ノイタミナ枠」に陣取る作品群であろう。

 これら作品群の秀逸な点はガラパゴス化と絡んでもうひとつ重要な問題「内国ガラパゴス化」に対する解決の可能性をも秘めている。「内国ガラパゴス化」とは、「ガラパゴス化」が日本対世界であったのに対し、当の日本国内に於いてもガラパゴス化が進展している、いわば二重のガラパゴス化の事を指している。最後にこの内国ガラパゴス化に触れておきたい。


 萌えアニメに代表されるわが国アニメ界のガラパゴス化の進展と平行して、いまわが国に於けるアニメユーザー(アニメオタク)は、分水嶺を迎えようとしている。具体的な話は「オタク論」的になり長くなるので避けるが、わが国のアニメオタクにはかなり前から、美少女キャラや内輪ネタのお約束ばかりを追及する「萌えオタ(革新勢力)」古典的で真に良心の作品を愛する「非萌えオタ(保守的勢力)」の、大別するとこの2派に分派し、残念なことに現在では萌えオタの勢力ばかりの声が過大(革新優勢)になり、彼ら萌えオタクの嗜好ばかりに偏重し、彼らのムラ的な内輪ネタの共有を前提とした作品(前述の「らき☆すた」を筆頭に)だけが脚光を浴び、作家性の強い、真に良心のアニメ作品が商業的に日の目を見ないという現象が起こっている。直近の代表例を下記に挙げるが、

 当ブログおよびニコニコアニメ夜話でも取り上げた「涼宮ハルヒの消失」の興行的成功が目立つが、他方アニメオタク界隈で沸々と傑作との呼び声が高い「マイマイ新子と千年の魔法」等は惨憺たる動員状況であることが一目瞭然であろう。劇場鑑賞前にテレビシリーズを視聴していることを前提とした(敢えて言うなら)内輪向けのガラパゴス作品である「涼宮ハルヒの消失(無論傑作であるが)」と比較すると、「マイマイ」はその動員数において1割程度しかないという、この暗澹たる現状が正に内国ガラパゴス化の実態といえよう。(「マイマイ新子と千年の魔法」は海外の数多くの映画祭に出品されていることも付け加えておく)

 わが国アニメ界は、外に「ガラパゴス化」内に、オタク内部での「内国ガラパゴス化」という二重の困難を抱えていると言える。確かにある種ムラ的な前提を共有する作品=萌えアニメの伸張はアニメーションという総体を盛り上げるのには結構な事かも知れないが、そればかりが過ぎて、上記のような真に良心の傑作が評価されない様な現状では、気が付いたときには国内のアニメの殆どがガラパゴス化した萌えアニメばかりで埋め尽くされ、わが国が将来のコンテンツ産業として期待する輸出に耐えうるアニメ作品が、過去の遺産の中にしか存在しないという状況になってしまうのではないだろうか。

 そうならない為にも、我々は脱ガラパゴス化へ向けた取り組みを始めなければならない。真の良作を評し、世間一般に広く認知する活動を起こさなければならない。その活動の一端でも当ブログが担えればよいと思うところである。

 「ガラパゴス化問題」とは、経済・産業問題ばかりではなく、実のところ文明論的来宿題を背負っているように思う。経済やカルチャーのガラパゴス化とは、詰まるところ進化の袋小路である。わが国に於けるガラパゴス化の筆頭製品として『ガラパゴス化する日本』作中で紹介された日本独自の携帯電話方式や、本記事で紹介した萌えアニメというガラパゴス化の代表事例は、わが国の経済や文化が退化・後退したために起こった事例ではなく、むしろ過度に進化し、洗練されたが為に起こった現象であるというのが重要な点である。洗練とは確かに素晴らしく、喜ぶべき事である。本記事で取り上げた「らき☆すた」にしろ「涼宮ハルヒの憂鬱」にしろ、それらは確かに出来すぎるほど洗練され、輝きを放っている。しかし洗練には「驕り」が付きまとう。洗練された内輪ネタを共有できる仲間内のぬるま湯に安堵し、それ以上の切磋琢磨を忘れさせ、まさに進化の袋小路に陥るのである。

 宮崎駿監督の不朽の名作『天空の城ラピュタ』を誰しもご存知であろう。本作に登場するラピュタ王国は、最新鋭の科学技術と複雑高度化された社会体系の極みに到達したにも関らず天空で滅んだ。なぜか。それは地上から離れ、自らの慢心と驕りの上に胡坐をかき、己を客観視し創意工夫・切磋琢磨する事を忘却したからに他ならない。「進化と洗練」の果てに、巨大な帝国は滅んだと描写されている。わが国とわが国アニメ界は決してラピュタ王国の二の舞になってはならないのである。

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