そして戦後が終わった。〜福島原発事故とパトレイバー2〜

 福島第一(通称「福一」)原子力発電所の事故が、国際評価尺度で1986年のチェルノブイリ原発事故と同等の「レベル7」に評されたというニュースが世界を駆け巡った。「レベル7」の評価基準は、大気中に放出される放射性物質が「数十万テラベクレル」以上を基準としており、今回福一から放出された放射性物質の総量は37万テラベクレル〜最大63万テラベクレルとの試算で、この条件に合致する。
 ちなみにチェルノブイリ事故は累積で520万テラベクレルが放出されており、これに比すれば福一はチェルノブイリ比10%程度の放出になっているが、この試算は「陸地」に向けての身の放出量の試算であり、「海」に放出された超高濃度の汚染水や放射性降下物の量はカウントされていない。仮に海に放出された放射性物質が、陸と同等だと仮定した場合、130万テラベクレル前後が放出されたことにあり、これはチェルノブイリの20%強に相当する。しかもこれは試算であり、当然終息まで放射性物質の漏えいは続くわけであるから、私は最終的には福一から放出される総量は陸海合わせて300万〜400万テラベクレル(その内、海への降下が60−70%以上)に近づくと予想する。とすると、これは殆どチェルノブイリと変わらないということになる恐ろしい予測になるが、今まで悉く楽観論が外れてきたことを考えれば、この予測ですら「中立」かもしれない。

 さて、そんな中で東電・保安院・政府の三者が、口を揃えて馬鹿の一つ文句のように「今回の津波は想定外だった」というが、果たしてそれは本当であろうか。福一が建設された1970年当時の、福一の想定津波高はたったの「5.7メートル」であったのはいまや有名な話である。ところが、この時点で「明治三陸地震」(1896年)の最高津波高は実に「38.2メートル」に達していた。1933年の「昭和三陸地震」の津波高は「23メートル」に達した。1960年のチリ地震では、津波高は辛うじて「4メートル」程度だったのだが、1970年の福一建造当時、直近のチリ地震津波を考慮したのであろう。しかしこの当時すでに判明していたはずの明治と昭和の三陸地震については、いずれもその津波高の20-30%程度の高さにしかならず、何ら津波防護の役に立っていない。この点は、より後世に建造された「女川原発(宮城)」が津波高15メートル程度を考慮してそれ以上の高さに立地したことを考えると、「想定外」という言葉は何の免罪符にもならず、1970年の福一建造時にいくらでも予測できたことであったことなど明白である。
 すなわち、「過去の経験則で、当時すでに既知であったはずの危険」が何ら設計思想に生かされていなかったという冷厳な事実は、詰まる所「少なくとも将来にそのような危機は再現されないか、再現されたとしても遠くの未来なので関係はない」という先送り、棚上げの思想が強く見え隠れするのは邪推ではあるまい。

 この「先送り、棚上げの思想・発想」は、何かに似ているとは思わないだろうか。現実目の前にある問題、将来必ず起こりうるであろう危機を知りながら、少なくとも自分の世代にはその問題は顕在化しない、とする発想は、実は戦後日本が歩んできた各種の歪みそのものである。

 例示すると、人口と出生率の永遠の上昇を前提に設計された年金制度の破綻を筆頭に、「次世代に棚上げ」としてお茶を濁してきた「尖閣諸島問題」及び「日中ガス田問題」。及び「未来世代に棚上げ」として解決とその要求を先送りしてきた「竹島問題」。国土外交のみならず、軍隊を警察予備隊⇒保安隊⇒自衛隊などと言い換えて巧妙に憲法解釈をすり抜けてきた自衛隊のレゾン・デートル、そして当然のことだが、冷戦崩壊後その構造的欠陥が露呈したにもかかわらず、先送り先送りしてきた「憲法問題(9条)」、それに付随する「武器輸出三原則」「非核三原則」、「日米安保条約と米軍基地問題」等々。

 「先送り、棚上げの思想・発想」は、「この国のカタチに関わる本質的なこと」にとりあえず蓋をし、ひたすら経済的発展を求めた吉田ドクトリン(軽武装・重商業)に起因する。「本質的なこと」を「棚上げして」とりあえず経済の道をまい進することを決意した吉田ドクトリンこそが「戦後」の出発点であった。爾来、「この国のカタチ」に関する国民的思索を行わないまま、我が国は世界第二位の経済大国に成り上がったのは一方の事実である。戦後とは、まさしくこの「先送り、棚上げの思想・発想」によって巧妙に隠蔽された「良くできた楼閣」であり、冷戦が崩壊して90年代・ゼロ年代に起こった社会事象・事件、即ち湾岸戦争を端緒としてオウム事件阪神大震災(と自衛隊)・9.11とテロ特措法・イラク戦争テポドンショック・北朝鮮拉致事件・尖閣諸島沖漁船衝突事件・大量の国債発行残高…はすべてこれら「先送り、棚上げの思想・発想」が沸点に達して湧きあがった結果、可視化された「昭和の遺産」とそれを清算する「昭和の決算の続き」に過ぎないのである。

 今回現出した福一の原発事故は、「先送り、棚上げの思想・発想」という、「戦後そのものの歪み」が遂に最後の火花となって爆発した瞬間だと私は感じてならない。前述した通り、明治と昭和の三陸地震から既に予期できていた想定上の瑕疵。その後、チェルノブイリ阪神大震災により顕著になった直下型活断層の存在、それに平成に至ってはつい最近の新潟中越地震における柏崎刈羽原発のタービン出火事故。警告は、20余年前から何度も何度も繰り返し行われてきた。所謂「原発反対派」と呼ばれる人はもとより、映画『東京原発』等に代表されるフィクションの想像力の中にも、何度も何度もこの「先送り、棚上げの思想・発想」に対する警告と予見が発せられてきた。それでもなお、政府・東電が何らの対津波対策、「想定外」という免罪符では許されない最悪の事態を防止しようと尽力しなかったことは、単に彼らの無能性を白日の下に晒すだけではなく、とどのつまりは「自分が生きているうちは大丈夫・自分の任期のうちには破滅は起こらない」という前述の尖閣竹島についての外務官僚、時の政権与党(自民党)の思想と同じ「先送り、棚上げの思想・発想」そのものであり、それこそが「戦後」そのものである。今回、禍々しくテレビカメラに捕らえられた原子炉建屋の爆発と吹き飛びは、戦後空間の破滅的爆発と終焉という二重の意味として、後世位置づけられるに違いない。

 「憲法9条」「自衛隊」「在日米軍(条約と基地)」という「この国のカタチ」に直接関わる本質的問題から目を背け、とりあえず「先送り、棚上げの思想・発想」を良として、「経済」のみに注力することによってできるだけ本質的歪みを見ないように、逃れるようにして束の間の繁栄(にしては大成功の部類)を築き上げたのが戦後の日本であると前述したとおりだが、これについて予知的に描写したのが当ブログでも頻出する押井守監督の『機動警察パトレイバー2 the Movie』(1993年)であるのはMPJ(メディア・パトロール・ジャパン)の「三島由紀夫事件とパトレイバー2」の寄稿文に詳述しているが、今一度本作品から「荒川」の台詞より重要部分を引用したいと思う。

引用
(前略)その成果だけはしっかりと受け取っておきながらモニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。いや、忘れた振りをし続ける。そんな欺瞞を続けていれば、いずれは大きな罰が下される(中略)この街では誰もが神様みたいなもんさ。いながらにしてその目で見、その手で触れることのできぬあらゆる現実を知る。何一つしない神様だ。神がやらなきゃ人がやる。いずれ分かるさ。
引用終わり

 1993年に製作された本作が、如何に示唆に富んだ世紀の傑作かが判ろうといえよう。「3.11」の地震について、アメリカの福音派の或る吾人が「異教徒への神の天罰」と言ったそうだが、無論件の発言は被災者の心情を逆なでする憤激ものの暴言であり、「地震兵器」並みのトンデモ発言であることはかくべくもない。しかし、それに続く福一の事故については、巷間言われるように天災ではなく人災であり、これはある種、冷戦後20年たっても未だ昭和の遺産を清算できない我が国の戦後体制に対する「罰」であり、神が与えた「戦後」という時代の強引な幕引きに違いないと私は考えている。

 神山健治監督の『東のエデン』で、主人公・滝沢朗と森美咲がなぜ昭和最後の年(昭和64年=1989年)の出生という設定をざわざわ第一話から強調させたのか、という解釈について、拙作ネットラジオ番組「ニコニコアニメ夜話・東のエデン」で、私は「昭和の遺産は昭和の世代が清算すべきという神山監督の意思」である旨、批評した。この批評はあながち間違いではないと自負しているが、想像力の中で昭和の清算が声高に叫ばれた90年代、ゼロ年年代。政治の世界では「戦後レジュームからの脱却」を謳ってマスコミに叩き潰された某首相の事実を引き合いに出すまでもなく、これら「戦後の清算」はとかく現実社会では全く空疎な響きでもって迎えられ、我々は悪戯に「失われた20年」を空費した。それが「失われた30年」になろうかという最初の年に、このような象徴的な事故が発生したことの意味を、私は偶然だとは思わない。目の前にある本質的な危機を「知りながら」放置してきた罪。「自分が生きているうちは大丈夫・自分の任期のうちには破滅は起こらない」から起こる「先送り、棚上げの思想・発想」への罰。我々はいまこそ、「強制的に」終了した戦後という時代の次に生きることを自覚しようではないか。そして、ポスト「3.11」の世界こそ、この国における「戦後」の次の歴史区分に成ることを胸に刻むべきである。

 改革は山のようにある。まずは首都圏一極集中の見直しと、地方へのリスク分散。中央集権的官僚体制の打破をせねばならない。しかし、改革の大仕事を成す前に、日本の信用破綻という悪夢が起こるような気がしてならない。福一事故を受けて「東京の外国人が4分の1になる」(TBSラジオ4.14付)というニュースは不穏だ。そうなった場合、戦後の次の時代は来ない。

引用
この国はもう一度、戦後からやり直すことになるのさ
引用終わり

という「パトレイバー2」の荒川の台詞が今、私の胸中を不気味に去来している。




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