とらドラ!〜UFOも未来人も居ない世界に生きる君へ〜

 本日の記事は”反萌えファシスト”を自認するところの管理人自身に対する痛烈な自戒の念を込めたものであります。順を追って話そう。

 只今テレビ東京系列で絶賛放映中のアニメ「とらドラ!」(毎週水曜日1:20-1:50)については、読者諸兄も名前だけは知っている、という方も多かろうと思う。管理人はさる先週この「とらドラ!」なる深夜アニメを偶然視聴したわけである。ちょうど、第16話の「踏み出す一歩」の冒頭途中部分からであるが、なにやらちっこくて威勢の良いの(逢坂大河)が生徒会長に立候補するだの何だのと言っている。番組表を見てみると、ナニナニ…、「とらドラ!」とか言うアニメである。公式WEBサイトに行ってみると、あらすじは「目つきが悪くて不良と勘違いされている高須竜児と小さくて凶暴でツンデレのヒロイン・逢坂大河が云々…」等となっていて、ああ管理人はまた「萌え至上主義者」が反動的策動で以って、わが国が誇る古き良きアニメ文化を侵食し、帝国主義的な商業侵略を謀ってわれ等中産人民の蓄えたなけなしの蓄財から1円でも多く搾取しようという反動の陰謀アニメを放送しているのだなぁ、等と否定的な色眼鏡で「とらドラ!」を観始めた。


 そもそも、「目つきが悪いだけで不良と勘違いされ…」ってそれ、『エンジェル伝説』の北野じゃねぇか!さらに、威勢の良いツンデレのヒロインと客観視を決め込む控えめな男って、まんま「ハルヒキョンの構図」のパクリであり、「涼宮」の商業的大成功に続けとばかりにどこぞの反動勢力が電通等の性根の腐った豚野郎共と企画した守銭奴萌えアニメであるな、とますます決めてかかったのである。しかも原作つきでそれがラノベであるとWEBに書いてあり、これはますます頂けない。所謂”ラノベ”など文学・文芸の片隅にも置けない帝国主義的な商業大資本に毒された軟弱で絵本然としたジャンルであり、そのアニメ化作品などもまた軟弱で反動的であるに決まっているのである、そう思っていた。このままチャンネルを変えても良かったのだが、リモコンが偶然部屋の奥のほうにあり、歩いて取りに行くのは面倒くさかったのでそのままにしておいた。どうせあと20数分で終わるし、このままBGM代わりにつけておこう。今にしてみればこれが運命の分かれ道だったのである。


 ところがどうも予想した展開と違う様相である。「とらドラ!」第16話『踏み出す一歩』は後半になってヒロインの逢坂大河と生徒会長の女子(名前失念)が殴り合いを始める。ここに来て管理人は、「あっ、この作品は萌えアニメなんかじゃ無いっ!!」という事実に気がつき衝撃を受ける。巨乳が揺れる訳でもなければ猫耳が出てくるわけでもない、逢坂大河と生徒会長が顔に青あざを作り涙を流しながらお互いを罵倒する。終始「真面目な」ストーリー展開と地味でいて大胆な構成に感銘を受けた管理人は、ここに至って全ソ連邦赤軍同志に戦時非常召集を発令し、非常の手段で以って「とらドラ!」第1話からの視聴を急遽決定したのである。



 勢い「とらドラ!」を1話から見始めた管理人は、その第2話『竜児と大河』でまたも衝撃を受ける。第2話からOPアニメが始まる(第1話は導入につきOPアニメなし)のであるが、このOPの映像的センスの素晴らしい事といったら無い。「と」「ら」「ド」「ラ」「!」というタイトル文字が、登場人物一人一人の歩調に合わせてタイトルバックされ、最初はバストショット次に→広角→広角→広角→ややアップ、という感じで実にテンポ良く導入されるのである。また、校舎の廊下ですれ違う逢坂大河と高須竜児がすれ違い様にストップモーションし、それぞれあさっての方向に目線を向けている構図も大変映像的に美しい完璧な構図である。この様なOPのセンスの良さは、自ずと本編の高い完成度を予感させるものである。


 そしてこの作品の感嘆すべき所は、ディテールの細かさである。押井守監督だか士郎正宗氏だかが仰られていた事であるが、「もっともリアリティを感じさせるバーチャル表現は飯を食う場面である」との言葉どおり、所謂「普通のアニメ」では食事は”背景の一部”として描かれていたが、本作では今日は豚肉の生姜焼き、明日はブリの照り焼き等と、極めて現実のデティールを以って登場人物の食事光景そして調理風景までもが描かれている。この様な描写は、物語世界のデティール構成を疎かに考えているならば決してなされない表現である。更に、高校生である逢坂大河は高須竜児の戸建てに隣接する高級マンションで一人暮らしをしている訳であるが、これも「両親が海外旅行で長期不在で…」等というふざけた設定ではなく、実父の諸都合として描写されている。(この辺りの親子関係のデティールは徐々に明かされる)また、その間の大河の生活費も実父が毎月銀行振り込みで専用口座に入れ、そこから大河が適宜ATMで引き出している、と描写される所も、極めてリアリティを持って迫ってくる。第一、主人公の高須竜児自体が母子家庭(母はスナックのママとして経済生活を支えている)という設定であり、であるが故に竜児が家事に精通している。という設定も、大変に精緻な描写であると言わざるを得ないのである。


 この様に本作のディテールの緻密さは枚挙に暇が無いが、やはり管理人が最も感動した部分の一つは話を戻すと第2話『竜児と大河』で、竜児と大河が夜の住宅街を帰宅する折、大河が「むかつくんじゃ!むかつくんじゃ!」と叫んで電信柱を蹴る場面であろう。この本作冒頭のシーンこそが、「とらドラ!」という作品を象徴しているものに他ならないのである。それは、精神は大人、肉体も殆ど大人、しかし社会的にはまだ何者にもなっていない高校生(自分)という存在を理解しない現実に対する苦悩と葛藤に他ならないのである。このシーンで、大河は電信柱が傾いている!と喜んだが、実際にそれは錯覚であり、鉄柱であるところの電信柱は微動だにしない。この「微動だにしない電柱」こそが、己を理解せず冷徹で過酷な現実世界そのものであり、それに蹴りを入れる事こそが、その残酷な現状へのささやかな反抗なのである。


 この記事の冒頭で、管理人は卑しくも本作が「涼宮ハルヒのパクリじゃないか」と決め付けたと述べたが、改めてそれは誤解であったと申し開きたい。管理人は「涼宮ハルヒの憂鬱」を映像表現的に高く評価しているのであるが、ご存知のとおり「涼宮ハルヒの憂鬱」の主人公・涼宮ハルヒ逢坂大河と同じ高校生という設定である。ハルヒは退屈な日常を憎悪し、UFOだの未来人だの異次元だ超常現象だのを探査?するSOS団なる部活動を立ち上げて、実際に本編にはその通り未来人だの異次元だの云々の展開がなされるわけであるが、それら全てはハルヒ「ここではないどこか」に己の存在意義と真の理解者を見出そうとした結果である。


 結局の所、「涼宮ハルヒの憂鬱」は「ビューティフル・ドリーマー」宜しく、「ここではないどこか」へ行く事を否定して終わるわけであるが(それ自体は作品として極めて優秀である)、そもそも本作「とらドラ!」には異星人もビームライフルも超能力者も、まして魔法もロボットも登場しない。ハルヒは、「ここではないどこか」に一時でも逃げ込むことができ、また物語上もそれが許される展開であるが、「とらドラ!」の登場人物たちは、大河をはじめ如何にそれが破天荒な性格であったとしても、「ここではないどこか」に逃げ込むことは許されない。北村君が髪をブリーチして金にしたが、結局親父に殴られて学校に戻り、生徒会長の鞘に納まるという展開も、「ここではないどこか」などリアルには存在せず、自分はどこにも行けない、フロンティアなど無いという当たり前の現実の中で苦悩しながら生きるほか無い、というリアルを描写していることに他ならないのである。


 我々が会社や学校をある日突然に退社/退学して、全てを投げ捨てて南の島に移住するのは事実上不可能なのと同様に、大河や竜児も現実が理想と違うからと言って例えば高校生を辞めて諸国を流浪することはできないリアリティの中に生きている。電信柱のように動かない現実に、気持ちだけでも蹴りを入れる作業。そして結局「どこでもないここ」の中でしか生きていく事しかできないという事実こそが、「とらドラ!」の描く圧倒的リアリティに他ならない。


 翻って、彼らの現実との苦悩や対決は、彼らがまだ何者でもない高校生であるという設定を超越して、つまりは視聴者そのものの投影である。学校を出て、社会に出て、仕事をしていてもとどのつまりは「私とは何か、私とは何者か」という根源的な問いかけに我々は常に晒されている。「ここではないどこか」に、本当の私がある。みんなそう思っている。本当の自分はこんな風ではない、本当の自分はどこか違う所にある、私の本当の居場所はここではないはずだ、という葛藤と苦悩。本作では、その「思い通りではない現実という名のリアル」の具現例として、竜児が好きな櫛枝、大河が好きな北村、北村が好きな生徒会長、そして大河と実父の関係という風に、決して交わることなくすれ違う人間感情の現状が数多く描かれる。「自分の事を理解してくれる、自分の事を受け入れてくれる何かここではないどこかにある、そんな理想世界」を誰もが望んでいる。夢見ている。しかし、そんなユートピアはどこにも無い。あるのはただただ自分に無理解な世界と、自分が理解できない不毛の世界である。


 竜児と大河が第15話『星は、遠く』中盤にて、冬の夜空でオリオン座の三連星を見つけ、「近いように見えて実はすごく遠い」と表現する。恒星間の距離のように、膨大で絶望的な距離感、それは現代と現実を生きる我々人間同士の模様そのものである。全く現実はうまくいかない。現実の世界は自分の心情などわかってはくれない。現実には誰も私を理解してなどくれない。現実には誰も誰も自分の事など…。誰も誰も誰も…。しかし我々はそれでも人と人とが交わるように、そこに手が届くように、希望に向かって努力を続けなければならないのだ、というのが本作のテーマではないだろうか。劇中曰く、「目に見えない真実」とは、星と星の間に漂う、暗黒で絶対的な虚無の空間を必死に埋めようとする「希望」の力に他ならない。


 唐突だが、管理人はこの回の「とらドラ!」を観ていて読者諸兄もお馴染み福本伸行先生のカイジを思い出した。豪華船エスポワールでの限定ジャンケンが終わったあと、カイジらは落ちると即死確実な高層ビルでの「鉄骨渡り」に挑戦する。そこで、カイジは真理に気が付くのである。以下抜粋である。(カイジを呼んだことの無い読者諸兄はまずい無いだろうが、万が一未読なら是非全巻読破していただきたい)

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いつだって人はその心は孤立している。心は理解されない、伝わらない。誰にも伝わらない。時に伝わったような気になることもあるが、それはただこっちで勝手に相手の心をわかったように想像してるだけで、本当のところは結局わからない。わかりようがない。それは親だろうが、友人、教師、誰であろうと例外なく無理なのだ!心は解けない。心はどうにも解けぬ。袋小路、迷路。時にその当の本人ですら迷い込み、 出口を失う迷宮、伏魔殿。他人に解けるはずがない。

ゆえに欲している。理解を、愛情を求めている。求めて、求めて、求め続けて、結局近づけない。ますます遠ざかるようだ。誰も人の心の核心に近づけない。(中略)

全ての人間に手は届かない。触れられない。離れている。離れている。全て遠く離れている。できることは通信。通信だけ。闇の中を尽きることなく交差する言葉たち。繰り返される通信。その無限のやり取り。心もとないその言葉たち。いくら熱心に語りかけても、それで相手が変わるとは限らない。通信は基本的に一方通行だ。本当に自分の心が相手に届いたかどうかは誰もうかがい知れぬ。返信があったとしても、どこまで理解しての返信やらたぶん半分も理解していないだろう。しかしそれで仕方がない。通信とは通じたと信じること。伝達は伝えたら達するのだ、それ以上を望んではいけない。

理解を望んではいけない。理解は望めない。真の理解など不可能。そんなことを望んだらそれこそ泥沼。打てば打つほど、焦燥は深まり、孤独は拗れる。そうじゃない。そうじゃなく打とう。無駄ばかりの誤解続き、人間不信の元、理解とは程遠い通信だが、しかし、打とう。あるから。確かに伝わることが、ひとつ。

温度・存在・生きてる者の息遣い。その儚い点滅は伝わる。なんだ ?この温もりは。胸から湧いてくるこの温かさ、感謝の気持ちは。そこに在るだけで救われる。希望は、夢は、人間とは別の何か、他のところにあるような気がしてたけどそうじゃない。人間が希望そのもの』

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 まさにその「希望」とは、極めて遠くにあるような気がするが、実はすぐ近くにあったりする。それが竜児と大河の関係性なのであるし、おそらく本作のクライマックスで昇華されるのであろう事であろう。重要なのは、星と星、すなわち人と人との絶望を埋めるための通信を続けること、その行為それ自体である。とらドラ!」の登場人物たちは、竜児⇔櫛枝、櫛枝⇔大河、川島⇔竜児、大河→実父、北村⇔生徒会長、そして竜児と大河との関係性などのように、挫折はするけれども決して通信を辞めようとはしないとはしない、諦めようとしない人達ばかりである。一時でも通信することを諦めようとした生徒会長に、殴りかかった大河の心は正にこの考え方に基づいている。そう、「ここではないどこか」など存在しない「どこでもないここ」というリアルの中で、我々は決して現実に対し通信することを諦めてはならない。これこそが本作の最も重要なテーマなのではないだろうか。


 この様に「とらドラ!」は、単なる高校生の恋愛コメディなのではく、極めて現代的で普遍的なテーマを内在している作品なのである。


 当初「ながら観」のつもりだった本作が、たちまち真剣に画面を見ている自分が居ることに気がついた。それは本作が、上記のように現代社会を生きる我々に通じる、普遍的なテーマを徹底的なリアリティと高度な映像演出技術の中に丁寧に内包しているからに他ならないのである。確かに、アニメ的でコミカルな部分はあるが、近年稀に見る丁寧な構成とクオリティで管理人の目の前に迫る。おそらく読者諸兄もその様な感慨を持つに違いないであろう。


 涼宮ハルヒの憂鬱が、『SF的自分探しの叙事詩』だとすれば、「とらドラ!」は『UFOも未来人も居ない世界に生きる君へ』送る物語である。


 最後に、この様な作品こそもっと高く評価されるべきであろう。また、”どうせラノベ原作だろう”等と安直にカテゴライズして一時でも見下してしまった管理人自分自身を猛烈に恥じたい。(そういや筒井康隆先生もラノベ書いてるんだってね)そしてとらドラ!」は、間違いなく傑作だ。そして、リアルタイムでこの作品にめぐり合うことの出来た幸運に感謝します。









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