翼の折れたオネアミス〜体制になったエヴァを憂う〜

 記念すべき日といおうか、それとも忌むべき日と言おうか。本日(09年7月3日)『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:序』が史上初めてTV放映されている。ということは日本全国津々浦々で金曜ロードショーエヴァが登場するという事である。いま、この記事を書いている目の前で放送されている。失礼ながら、私は本作を劇場版で観ていないし当初から観る気もしなかった。それは、どうせ総集編を3分割でやるだけだろう、という醒めた感覚もあるが、それ以上に私は近年『エヴァ』と聞くとなんだかとても憂鬱になっていたからに他ならない。

 いつごろからだろう、『エヴァ』に対して拒絶感を感じるようになったのは。本放送開始から今年でちょうど14年が経った。エヴァの舞台である2015年まであと6年、近未来が現実味を帯びてきた。少し自分の話しをしよう。何を隠そう、私がエヴァに出会ったのは1997年初旬の出来事である。この時、私は14歳(1982年生である)であった。そう、碇シンジ綾波レイ惣流・アスカ・ラングレーと同じ14歳である。これは生粋の『エヴァ第一世代』といっていいだろう。当時の私、というか同世代の読者諸兄ならきっと共感されると思うが、私たちはみなエヴァという名の熱病」に犯されていた。黒バックに白抜きの明朝体の文字を見ると必ずエヴァと連想させてしまう症状が出たり(これ自体は故・市川崑監督のスタイルのオマージュ)、アニメージュニュータイプに代表されるアニメ雑誌や当時未だ充分に普及していなかったインターネット等(しかも当時最速とされたISDNの速度が64kbps!!しかもテレホーダイという似非定額制以外は従量課金。もはやギャグだ)から情報を収集しては日がなアニメイトに入り浸り、書店に言ってはエヴァコーナー(ブームの当時はどの書店にもエヴァコーナーが出来た)に寄っては意味も無く宗教書を手にしたりした。

 エヴァブーム当時、恐らくその絶頂であったのは『エヴァンゲリオン劇場版 DEATH & REBIRTH シト新生』(1997年3月15日公開)、および同年夏の『新世紀エヴァンゲリオン 劇場版 THE END OF EVANGELION Air/まごころを、君に』(1997年7月19日公開)の間とその直前であろう。(ちなみに管理人は調べなくてもこの二つの劇場版の公開日を言えることが出来る。それほど当時の我々エヴァオタにとって歴史的なことであった)

 今のエヴァしか知らない私の世代以下(おおむね24歳以下)は知らないだろうが、当時三鷹市水道局ポスターGAINAXのお膝元・三鷹市の企画。綾波レイの浴衣姿のポスター)に10数万円の値が付き、三鷹市各所でポスターの盗難が相つぐと言う珍事件が発生したり、劇場版の限定前売りチケットの購入特典として付与されたレイとアスカのテレホンカードにプレミア価格で2万から3万の値段が付いたりした。ちなみにこの特典テレカを持っていると周囲から神扱いされたものである。(管理人は入手し損ねてしまったが、同学年のM君は持っていた)

 とまぁ、こういう熱狂のブームは思い出としての一側面に過ぎない。当時、あの狂騒の社会現象・エヴァンゲリオンブーム(ヤマト・ガンダムに次ぐ第三次アニメブームと言えよう)を実体験した我々にとっては、エヴァという作品は単にアニメ作品と言うものではなく、アニメの枠を超えたアニメであるという点で、画期的な人生のターニングポイントであった。端的に言うと、我々にとってエヴァは『カルチャーへの登竜門』であったという事だ。エヴァと言う作品内に散りばめられている、宗教・心理学・SF考証・哲学・軍事・歴史・映画・小説・漫画・写真等々、それら全てが我々の知的好奇心を刺激し、新たな知的探求の世界に誘う入門書と同義であった事は万人の認めることであろう。前述の、当時書店に登場したエヴァコーナーには必ずといっていいほど新旧の聖書が山積みにされていた。(この時期、新旧の聖書が馬鹿売れすると言う出版界の珍事が起こったのである)そもそもシトやらエヴァやらリリスロンギヌスの槍云々というのが、キリスト教およびユダヤ教からの引用用語であり、我々は所謂『エヴァの謎』を解き明かす為に、当時山のように出版された『謎解き本』と併せて貪る様に知識を吸収していった。

 いわば、エヴァと言うアニメは換言すれば「学問」への出発点だったといっても良い。かく言う私もこの時初めて新旧の聖書を読み、アスカ曰くジェリコの壁とは旧約聖書に登場するヨシュア記に元ネタがあることや、ネルフの中央コンピューターであるメルキオール・バルタザール・カスパーはキリストの誕生を予言した東方の三博士である事、また登場人物の名前が旧海軍の艦艇から命名されており、その中でも鈴原トウジ相田ケンスケ村上龍の『愛と幻想のファシズム』の主役二人の名前を拝借したことなど、例を出すと枚挙に暇が無いが、ともかく私たちはエヴァを出発点にして文学・心理学・宗教学・軍事学・映像映画その他ありとあらゆる分野の学問への探求の扉を開く事になった。私が今を以って村上龍先生の大ファンなのは、この時に命名の由来に触発されて『愛と幻想のファシズム』を読破したからに他ならず、そもそもその後文学を志して関西圏の某大文学部に入り、そして映画やらなにやらをやりだし、結果的にこうやってアニメのブログやらラジオやらをやっているのも、全ての私の人生の出発点はこのエヴァンゲリオンとの出会いであった。あの当時エヴァと出会わなかったら私の今の人格は存在していない。絶対に。私以外にも、エヴァに触発されて今頃精神科医になったり、心理学者になったり、そもそもアニメーターや映像作家になったものも居るであろう。それだけ、エヴァと言う作品は繰り返すがアニメを超えたアニメであり、我々の人生に深く深く刻まれた一里塚である。

 と、ここまでエヴァについて熱く語ったが、最初の本題に戻ろう。何故、昨今私がエヴァと聞いて憂鬱になるのか。それは本放送終了から13年が経ち、あの激動の劇場版2作(1997年)から12年が経過した間、エヴァンゲリオンはパチンコ・スロットに移植され膨大な量のDQN層が新たにファン(私に言わせれば似非)として加わった事と、当の生みの親である庵野秀明氏が全くポスト・エヴァンゲリオンという価値観を提唱しないことである。前者の、パチンコ・スロットであるがこれはもう本当に深刻な問題だ。そもそも、1997年のエヴァブームのときなど、所謂広義のエヴァファン(ライトユーザー)にしろ、私のようなヘビーユーザー(26話全話視聴必須+角川のフィルムブック全巻購入および庵野氏の過去作品、ナディア・トップを狙え・オネアミス視聴が最低条件)にしろ、一言でいうと行儀のいい奴が多かった。つまり、「死に至る病そして」のタイトルの由来はキェルケゴールから来ているのか!とか、『ハリネズミのジレンマ』の解釈とは?ということを一々図書館で調べるような奴である。翻って、今のパチンコ・スロットから入った似非エヴァファンはどうだろうか。そもそも、26話全部観ているのだろうかと疑うような知性の持ち主で、そもそもパチンコ=エヴァの構図が出来上がっている。そう、今や『エヴァ』はパチンコ・スロット馬鹿にとっては「パチンコ屋にいく」事の代名詞となっている。

 飲食店の従業員に「おう、ねーちゃん遅いやないけ、はよしろ!」と怒鳴るような作業着然とした奴がエヴァの台を打ち、『初号機』だの『レイ』だのと口にしている。自分の息子娘に「龍翔(りゅうしょう)」とか「瀬詩瑠(せしる)」とかいう名前を付けて、無論大学教育など受けた事も無く、必ず自家用車にはエルグランドなどの大型車か紫色系統の派手なワンボックスカー等で、ダッシュボードにはもこもこの羽付のファーを必ず敷いて、光モノの室内装飾をしながら浜崎あゆみ、若しくは倖田來未のCDを大音量で流しながらドン・キホーテで買い物をする。こういう典型的な日本の社会的底辺がカオル君やらアスカやらが表紙のパチンコ雑誌を読み漁って知った顔でエヴァエヴァと言う。昔、STUDIO VOICE誌がシンジ君の顔全面で表紙を作って話題になったが(私は保存用に一冊持っている)、昔STUDIO VOICE、今パチンコ雑誌。余にも余にも、エヴァに関する知性が劣化している。彼らは例えTVシリーズ本編を26話全部観たとしても、そして今回の劇場版を観たとしても、正確にこの作品の何たるかを理解する事が出来るだろうか?死海文書と聞いて、その元ネタを図書館に行って調べたりするだろうか?いやしない。絶対にしない。いま、こういった明らかに異質なこの国の社会的底辺がエヴァの似非ファンとして続々と参入している。これを私は『文化的なレイプ』と呼ぶ。

 もうひとつ、エヴァ生みの親、庵野秀明氏についてである。読者諸兄なら言うまでも無いが、エヴァ以降庵野氏は『彼氏彼女の事情』というTVシリーズを製作し、実写作品として村上龍原作の「ラブ&ポップ」およびかの名監督・岩井俊二主演の「式日」など実験的な映像作品を生み出した。いみじくも倖田來未ブレイクのきっかけとなった佐藤江梨子主演の「キューティーハニー」も氏の監督である。この他にもTSUTAYAのDVD企画として流星課長のなどの短編や、最近では人形劇映画「ストリングス」の日本版演出などもやったそうである。しかし明らかに、エヴァ以降の13年とそれ以前とでは庵野氏の何か才能の輝きと言うものに明らかな質量の低下を感じるのは管理人だけであろうか。

 庵野氏の大阪芸大時代の伝説の自主作品『愛國戦隊大日本』や、ガイナックスの前身であるDAICON FILM時代のDAICON 4のオープニングムービー(テレビドラマ電車男のOPの元ネタだと知らない君は恥ずかしいぞ。電車男のOPはパロディとしても劣化しすぎだが)や、その後『王立宇宙軍 オネアミスの翼』、OVA『トップを狙え』、NHKの『ふしぎの海のナディア等々、エヴァ以前の庵野氏と以降の氏は戦前戦後の日本のように何か変化が際立つ。それは氏が、エヴァと言う日本の歴史に残るアニメを世に出してしまったが故の事であると好意的に取ることも出来るが、そもそもエヴァ以降13年も経ってカレカノ以外目だったアニメ作品を監督していないという所に、氏の衰退と言うか才能の抜け殻と言うか、なにかしらの凋落性を感じざるを得ない。更に氏は漫画家の安野モヨコ氏と結婚しているが、これは蛇足だが安野モヨコの「働きマン」という経団連の宣伝漫画が大変頂けないのもエヴァ以降氏への評価が私の中でイマイチであることに微妙に影響している。この働きマンという漫画は、どれだけ寝る暇も無く献身的に働いても、ただの一言も、ただの一コマも給料や給与体系に関する描写が出てこないという不思議な漫画であるが、このアニメ版の主人公・松方弘子のアニメキャラが人材派遣会社・ディックの宣伝キャラに採用され、松方弘子が大きく中空に腕を突き出して「ディック!!(ちんぽ)」と叫んでいる一時期流れたCMにこの作品の方向性の全てが象徴されているといっていいだろう。

 まぁ、安野モヨコはともかく、今回の『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:序』がそうであるように、庵野氏にしたって、新しいアニメ作品を監督すればいいのに、いまだに総集編にカットを加えてリニューアルしたように装い、それを3分割して売りに出すような、正に『過去の遺産を食い潰す』という手法そのものと、当の本人もそれに惰性のまま安息してしまっている様に見えることが、エヴァと聞くと私を更に憂鬱にさせている元凶なのである。『過去の遺産を食い潰す』という手法の延長戦上に立つのが今回の、『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:序』であり、私にすればこれをテレビでやる、しかも金曜ロードショーでやるという事は、新しい価値観を創造・模索せずに、ひたすら先人達の経済的遺産を食い潰す、ニート文化に代表される現代日本の象徴のように見えて仕方が無い。今日と言う日、09年7月3日は、それまでサブカルチャーの代表格であったエヴァンゲリオンがもはや体制としてこの国に君臨した事の何よりの忌まわしい記念の日になるであろう。金曜ロードショーは一種の権威である。私たちの輝かしいカルチャーの下地、あらゆる知性の出発点であったエヴァは、もはや体制になってしまったのだ。生みの親である庵野氏がよほどの決意をして再起動でもしない限り、この体制となったエヴァ現代日本がそうであるように、文化的遺産としてひたすら後進の無気力な人々に食い潰されて消費され、結局は何も残らないであろう。


 
 エヴァンゲリオンを誰よりも愛したと自負がある私は、いまの庵野秀明氏に是非とも問いたい。


 ●拝啓、庵野秀明

 私は貴方が監督した新世紀エヴァンゲリオンに、世界で最も影響を受けた膨大なる人間のうちの1人です。



 ●拝啓、庵野秀明

 私は貴方がGAINAX時代に製作された王立宇宙軍オネアミスの翼の主人公、シロツグ・ラーダットに貴方をはじめとしたGAINAXの才能と勇気あふれる若者を重ねて見ていました。

 シロツグが地球の重力を振り切ってそれでも宇宙に飛び立とうとするのは、他でもない貴方達自身の投影であり、地球の重力はこの社会のしがらみや矛盾であり、アニメやアニメ製作者に対する偏見に他なりません。
 
 それでも貴方はシロツグに翼を生やして宇宙に飛ばしました。私はそこに、若者、いや人間の潜在力と未来への輝き、そして希望を見出しました。



 ●拝啓、庵野秀明

 オネアミス以後、貴方はナディアやそしてエヴァンゲリオンを製作なさいました。まさに、貴方はシロツグ・ラ−ダットそのものでありました。常に新しい演出、常に緻密で斬新な構成、常に新しい発見と発明を、私たち観る者に与え、虜にしました。


 
 ●拝啓、庵野秀明

 貴方が作ったエヴァンゲリオンの放送からもう13年が経ちます。驚く事に未だエヴァの総集編が焼きましされて劇場公開されています。そしてこの間、エヴァンゲリオンはパチンコ・スロットになり、無気力な若者から時間と、お金と、そして希望を根こそぎ奪っています。



 ●拝啓、庵野秀明

 貴方はオネアミスの翼ではなかったのでしょうか。
 オネアミスの翼は折れてしまったのでしょうか。
 オネアミスはもう飛び立たないのでしょうか。