そして「喪失」から立ち上がる人々〜『あの花』評

 この期に及んで漸く『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない』(あの花)を全部見ようとは、周回遅れの行為でありアニオタ失格である。とはいえ、単行本執筆で目が回る忙しさだあったのであり、勘弁して欲しい。

 本作については、敢えて余り多くを語るべきではないかもしれない。というのは、それほど本作の完成度は高いからであり、テレビシリーズの完結を以てそれぞれの見る者の心の奥底に、大切なアルバムとして保管して置くのがいいようにも思えるからだ。

 しかし、本作を最後まで見てしまった以上、評せずには入られない。ということで遅きに失したが色あせない名作である『あの花』を評そうと思う。また、未だ『あの花』未視聴の読者諸兄に置かれては、ネタバレを含むので以下は読み飛ばして結構である。


 まず特筆すべきは、A-1 Picturesの作画能力の高さであろう。特に背景描写は秀逸であり、アイジー京アニマッドハウスと完全に肩を並べるわが国最高峰のレベルであるといってよい。流石、埼玉県秩父市に「聖地巡礼」の列が出来るの頷ける。また人物の喜怒哀楽も実に緻密に書き分けられており、背景を含めた作画レベルはテレビシリーズの作品としては勿体無いのではないかと思うほど「傑出」していると評するより他ない。更に「ガリレオ・ガリレイ」のOP「青い栞」の選定も実にセンスが良い。ノイタミナ枠は全般的にそうだが、こういったロッキン・オン系のアーティストの選定が実に効果的である。素晴らしいの一言に尽きる。

 さて、本作は最後まで観た読者諸兄なら当然の如く頷いていただけると思うが、「喪失」を経験した登場人物が、その喪失から生じた空白を埋めるまでのひと時を描いた、実に文学的ともいうべき作品であろう。本作の便宜上のヒロイン「めんま」が生前したある約束を、成長した幼馴染達がその成仏のために叶える、というストーリーの駆動構造を持つには持っているが、実は物語は「めんま」を軸として進むのではなく、彼女はあくまで付随品に過ぎない。そういった意味で、あえて彼女を「便宜上のヒロイン」と書いたが、あくまで本作の主軸は生者である「じんたん」「ゆきあつ」「ぽっぽ」「あなる」「つるこ」である。

 不幸にして事故死した死者が、ある日忽然と姿を現す、というのはやや陳腐化した設定かもしれない。しかしながら、本作で特筆すべきなのは、徹底して「めんま」を記号として描き、その主軸は生者である五名の心象が描かれる点である。だから体は成長したとはいえ、徹頭徹尾「めんま」はガキらしく無邪気でなければならず、そして「めんま」が無邪気であればあるほど、生者五名の「喪失」が際立つ、という物語上の必然を伴っている。実に的確な構成である。

 注目したいのは最終話に繋がる終盤である。めんまを成仏させるために打ち上げるロケット花火が実はめんまの成仏とは無関係である事に収斂していくとき、生者五人は否応無く自身の「喪失」と直面しなければならなくなる。めんまの為に、という他覚的な動機が、いつしか自己の「喪失」に正目から向き合うことを強制させるラストは、実に素晴らしい脚本上の構成だ。

 最終回、「かくれんぼ」の終わりに生者五名が叫ぶ「みーつけた!」と終劇を迎えるそのクライマックスは、もちろん物体としてのめんまの発見という意味ではない。彼ら五名が「みーつけた!」のは、自身の「喪失」そのものであり、己の空白の、正にそのものへの直視と肯定であった。

 徹底して「喪失」を直視し、そこから立ち上がる彼らを生者の視点から全くブレることなく描写した本作は、東日本大震災福島第一原発事故で数多くの「喪失」を経験した日本人にとって、不思議にシンクロするテーマではないだろうか。

 引き篭り(にしては些か美形に過ぎるのは唯一気になるが)のじんたんが、後日談として学校に復帰する様は、「喪失」と「再生」は背中合わせであり、即ちイコールであることを強く訴えるラストとなっている。「喪失」は全ての終焉を意味するのではない。「喪失」と直面し、それに臆せず直視したとき、そこから「再生」が生まれるという本作のテーマは、この時勢にあって偶然のシンクロとは思えない。友人・仲間の「死」という、最も重い「喪失」を経験したじんたんを筆頭とする生者五人がその重い「喪失」と同居しながらも、やがて再生に向かおうとする姿は、即ち現在の我々に重なるのではないか。

 「喪失」とどう向き合うか。「喪失」をどう捕らえるか。これは永遠のテーマであるといえる。放射線による国土の「喪失」を、未だに希望的観測で「喪失」と認定しない者が居るが、私はそれは単なる逃避であり、「喪失」に対する真摯な態喪とは程遠いと思う。「喪失」に向合うのは辛く、悲しいことである。時として見の引き裂かれる想いが伴うであろう。またそれは言葉で書くほど簡単なことではないであろう。実際に深い「喪失」を経験した者でしか分からない部分も多いと思う。しかし真の再生はその「喪失」との直面からしか生まれないことも本作は明瞭に描写している。

 ともすれば「喪失」という重い現実から、破滅した空疎空論を用いて逃避するが良しとする言説を盲信して我々は「喪失」から眼を背けてはならない。「喪失」と「再生」はイコールである、というテーマを堂々提示した本作は、古今稀に見る傑作であるとしか言いようが無い。「じんたん」「ゆきあつ」「ぽっぽ」「あなる」「つるこ」は即ち我々である。貴方であり私である。必ず訪れる、そしてもう訪れているかもしれない「喪失」に対するアプローチを、これほど真摯に描写した作品を私は観たことが無い。本作はまごう事なき名作であると私は断言しよう。


「喪失」と「再生」の物語を緻密に描写した本作は近年稀に見る傑作

 そして最後に、本作を見ていて感じたのは少年時代に仲良しであった幼馴染が、秩父という狭い範囲で着かず離れず再結集するというその(良い意味での)スケールの小ささである。これは同じ埼玉を舞台とした入江悠監督の実写作品『SRサイタマノラッパー』(といっても『木更津キャッツアイ』ほどわざとらしくない)を彷彿とさせる舞台的距離感である。どこまでも優しく、しかし思慮深く息子を見守る「じんたん」の父親像といい、もしかしたら「喪失」に対抗する抵抗力とは、こういった「地元」「ジモティー」の土着的腐れ縁なのではないか、という気がしてこれもまた本作をして私の心をじぃんとさせる感傷の原因である。

 もう10年もマトモに地元に帰っていない私は、こういった「地元モノ」の作品をみると反射的に涙が出てくる。それは大前提的に私の中に「喪失」が組み込まれているからかもしれない。放射線と国土の「喪失」に限らず、常に「喪失」と「再生」を繰り返しているのが我々の人生なのではないだろうか。しかしその「喪失」と「再生」のバランスが崩れて「喪失」のほうが重くのしかかるとき、我々は『あの花』を思い出し、そこに「喪失」へ対抗し得る物語を取得しることが出来るとしたら、これ以上の僥倖は無いであろう。


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