日本一遅いエヴァ新劇場版”破”批評〜想像力を超えて〜

 テアトルは〜我々文化の母でありぃ〜(大友克洋/画、矢作俊彦/作『気分はもう戦争』より中国へ向かう日本人義勇兵の台詞風)


 と言う訳で6月27日公開のエヴァンゲリオン新劇場版”破”をさる9月6日、シネセゾン渋谷(テアトル系)にて鑑賞した。何故、アニオタ保守本流を名乗る管理人が6月27日公開の本作を都合3ヶ月遅れて鑑賞する事になったのか。批判は重々承知の上で少し釈明させてほしい。主な理由は、翼の折れたオネアミス〜体制になったエヴァを憂う〜(2009年7月3日)に詳しいが、そんなもの律儀に読んでいられないという読者諸兄のために要約すると、


.日本アニメ界がエヴァの本放送開始から14年経ってもまだポスト・エヴァンゲリオンの作品を輩出していない事。
.エヴァの大ヒットによって商業主義者が我先にとアニメ界に入り、エヴァ以降アニメ界は粗製濫造の時代を迎えたこと。
.2)に関連してその道義的責任のある当の庵野氏自身がエヴァ終了後10年以上経っているのに目立った新作品を創作していないこと。
.エヴァが商業主義者の策動によりパチンコに移植され、無教養なにわかファン(ファンとも呼べない)が大量に増加したこと。


 の4点であるが、特に管理人が危惧したのは4番。まかり間違ってエヴァの劇場版を観に行った日に、低所得・低学歴・低モチベーションの所謂3低(と管理人が勝手に呼んでいる)のパチンコ中毒者がまたぞろ我が物顔で劇場を占拠するというおぞましい光景を目撃した時に、アスカ並みの精神崩壊が管理人を襲うのは火を見るよりも明らかであるからである。即ち、パチンコ中毒者が倖田來未のCDをガンガン鳴らしながらワンボックスカーで劇場の前に乗りつけ、野外労働で日に焼けた腕を捲り上げながら、「おう、えヴぁえヴぁ、えヴぁ大人2枚な、はよせぇや」等という光景を見た日には管理人は当該のパチンコ中毒者を殺しかねない衝動に駆られるのは明らかであるからである。

 要するに、劇場に行くのが怖かった。この一言に尽きる。もうお分かりであろうが、管理人はエヴァを愛する一心で劇場から足が遠のいていたのである。上記のリンク先記事に詳述しているが、そも管理人がこうやってアニメ批評をやったりラジオをやったりしているのはすべてエヴァとの出会いがきっかけであると言うのは過言ではあるまい。当時シンジ君と同じ奇しくも14歳でエヴァの洗礼を受けた管理人は、エヴァをその端緒として宗教に、心理学に、或いは哲学に、文学に、歴史に、映画に、漫画に、ありとあらゆるカルチャーへの扉を開くことになった。もっと言うと私が大学に入れたのもエヴァのお陰だろう。母体からの出生が最初の衝撃、即ちファーストインパクトであったと捕らえれば、管理人にとってエヴァとの出会いはまさしくセカンドインパクトであった。

 ま、管理人のエヴァに対する思いの丈はこの位にして、管理人はこのたび遅れてテアトル系列に行ったのも幸いしたのであろうか、危惧したパチンコ中毒者などただの一人も居なかった。尤も、本当は居るのかもしれないが、観客は殆ど見るからにサブカルが好き、アニメが好きといった風体であり、また半分以上が一人客であり、観客は皆粛々と入場券を買い求め、皆感動を一人胸に秘めて粛々と元来た道を帰って行った。私はこういう鑑賞姿勢が大好きである。テアトルは我々文化の母であることを改めて実感した次第である。しかし、自分で言うのも何だが私も随分と馬鹿になったものだ。よく考えてみるまでもなく、パチンコ中毒者には「映画館に行く」という文化的習慣などはじめから無いのだから。案ずるより生むが〜とはこの事である。

 さて、肝心の本編であるが、一言で述べると「想像力を超えて」いる。それは使徒の造形に顕著である。兎に角、今まで何人も見たことが無い化け物をどう描いてやろう、という発想の帰結が随所に見られる。正に想像力を超えた想像力、圧倒的な映像的快感が120分間ずーっと途切れることなく続く。想像力のリミッターを解除した、と言うのが的確な表現かも知れない。しかし、本作を観て行くうちに管理人はある確信に至るようになった。本作にはこれでもかと言わんばかりに摩訶不思議で圧倒的な使途の造形や、それに対するエヴァのアクロバットシーンと異常な密度の爆発、破裂、爆液が兎に角兎に角これでもかこれでもか、と満載されている。だが、それらは実はまったく無意味な記号でしかなくなっていることに本作をご覧になった賢明なる読者諸兄は気がついたであろう。そう、新劇場版”破”に於いて、使徒も、更にはエヴァの体躯自体も単なる記号のひとつとしてしか描かれていないのである。では本作の核心は何であろうか。それは、(もう公開から3ヵ月なのでネタバレしても宜しいだろう)本作のラスト部分でシンジ君が使徒ゼルエル?)に融合された綾波を別次元?の彼方から救い出す時、えいやっとばかり掴み取ったラジカセである。この場面が本作のすべてを象徴していると言っても過言ではない。管理人はこのシーンで涙がとめどなく零れ落ちた。少年期から大人への劇的な脱皮の過渡期にある主人公・碇シンジ。実は使徒エヴァネルフ人類補完計画も、本作では装飾的記号のひとつ、平たく言えばあっても無くてもどっちでもいいのである。主人公・碇シンジ君の精神が如何にして救済されるのか、されないのか。もっと言うと、ラストもラスト、新生・渚カヲルの台詞「今度こそ幸せにしてあげる」この一点に尽きる。
 
 碇シンジが幸せになれるか否か。人類補完も使徒リリスもどうだって良い。数ある人間関係に苦悩し、孤独の内に己の存在意義を問い続け、そして葛藤の中で少年期の終わりを迎える碇シンジ。その道程は、我々14歳を過ぎた大人がそうであったのと同じように、我ら思春期共通の苦い苦悩であろう。人間はそういった艱難辛苦を超えて大人に向かって行くのである。しかし、大人になってからでも「我とは何ぞや」という根源的な問いはなくならない。TVシリーズの話題を呼んだ最終回が正にそのテーマであったように、本作・新劇場版”破”はその問いを更に深化させているように思える。「私とは何か」「私の幸せとは何か」「私はどこへ向かったらよいのか」。思春期で過ぎ去った筈の問いは、実は全人類的な共通の普遍的テーマに他ならない。新劇場版は、シンジ君を通じてその答えを出そうとしているかのように思える。いや、答えなど無いのかもしれない。しかし、これだけ悩みもがいているシンジ君に、我々は無条件のエールを贈りたくなるのも隠しがたい本心ではないだろうか。本作終盤、覚醒した初号機の暴走を見て「やめなさい」と止める赤木リツコに対し、「行きなさいシンジ君!」と言い放った葛城ミサトの台詞が象徴的である。管理人を始め、観客の誰もがそう思ったに違いない。シンジ君行け、GOと。「幸せは自分の手で掴み取るものである」。これが本作のテーマなのかもしれない。自己啓発セミナーよろしく、椅子に座ったままで「ありがとう」の連呼で終わったTVバージョン。今回はもっと深化させて、椅子を立て、立って自分で掴み取れ。というポジティブ・テーマが内包されている。願わくば、本作があと2回の劇場版を消化した後、庵野秀明氏には永い沈黙を打ち破って新しいアニメ作品を創作してほしいものである。その時こそ、真にエヴァが”破”られる事になるであろう。

 さて締め括りにこれだけは言っておこう。いくら破が良いからと言って、パチンコのエヴァとパチンコ中毒者だけは絶対に認めない。続編2回に益々期待である。


*関連記事 

2009-07-03 翼の折れたオネアミス〜体制になったエヴァを憂う〜
2009-07-03 エヴァ序・劇場版公開に寄せて〜私小説『1997年3月16日』


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