超大作?『仏陀再誕』観ました!〜宗教とアニメーション〜


 いま(09年10月現在)、ナウでヤングな巷の若者たちの最先端のファッション・ムービーと言えば何か?と問われたならば読者諸兄は何と答えるであろうか?「あなたは私の婿になる」「ココ・シャネル」「私の中のあなた」等と答えた読者諸兄は今すぐファミリーマートに行って「an・an」を一年分買ってきて中学2年からの勉強を全てやり直した方がよろしい。正解は、そう大川隆法製作総指揮の『仏陀再誕』である。これ以外に無い。と言うのは気の利いたジャパニーズ=ジョークであるが、管理人は先ほど『仏陀再誕』を鑑賞して来た。

 無論、「テアトルは〜我々文化の母でありぃ〜(大友克洋/画、矢作俊彦/作『気分はもう戦争』より中国へ向かう日本人義勇兵の台詞風)」と言う心構え&アニオタとしての義務、そして大川氏率いる「幸福の科学」製作の数年ぶりの新作劇場アニメと言うので無論これを逃す手はなく、勇んでテアトル系列にて鑑賞してきたのである。ちなみに管理人はこのテアトル系列のタダ券を持っていたので、大川氏の大作映画を観るに正規料金の1,800円を払わず、タダで観たという事実は大変心苦しいのではある。(ココは重要なので強調するが、管理人は例えタダ券を持って居なくてもこの素晴らしい大作アニメを見に行くつもりだった。もう一回言う。タダ券をもって居なくても(略)

 さて、まずそこそこの広さの劇場に私を含めて6人しか客が居なかった(平日夕方)のは、私が足を運んだ当該映画館の周辺には仏陀の御心が浸透していなかったという残念な結果の帰結なのであるが、まず簡潔にストーリーを述べようと思う。ネタばれになるので劇場に足を運ぶ前にストーリーが知りたい!と言う猛者のみ読んでいただきたい。


***ネタばれ本編あらすじ***

 主人公の天河小夜子(あまのがわさよこ)は17歳で父親が勤務医、中の上くらいの生活レベルの家庭環境にある女子高生だが、ある日突然霊が見えるようになる。何故霊が見えるようになったのかは説明されない。何故か霊が見え、霊の声が聞こえるようになるのだ。(トゥルー・コーリングっぽい)そこで、霊視が出来るともっぱら噂の霊能力者で新興宗教団体・「操念会」(そうねんかい)会長の荒井東作(あらいとうさく)の説法会に出向く(小夜子は新聞部員なので取材と言う名目)のであるが、「荒井は危険だからやめなさい」と海原勇気(うなばらゆうき)に止められ、説法会から脱出する。この勇気君と言うのは小夜子の元彼という設定で、ブリーチの黒崎一護をそこはかとなく意識しているのか居ないのかは管理人には知るすべも無いが、

左)ブリーチの黒崎一護,右)本作の海原勇気。
(そこはかとなく意識していると思うのは妄想癖のある管理人だけに違いない。)

兎も角彼は宗教団体「TSI」に所属して正義の活動をしている。このTSIというのが何の略なのかは劇中最後まで明らかにされない。

 説法会から抜け出した小夜子に怒る霊能力者・荒井は、意趣返しとして何故か小夜子本人ではなく小夜子の弟に霊的な「何か」で呪いをかけ瀕死の状態に。そこに、TSIの教祖・空野太陽(そらのたいよう)が颯爽と登場。念的な「何か」でもって弟の呪いを解き放つ。空野氏の声は子安武人。相当カッコイイ。

 ところが、当然のことだが荒井は空野およびTSIを目の敵にしており、小夜子の弟に呪いをかけるという小細工と平行して壮大な「計画」を実行に移そうとしていた。その計画とは、UFOを使った東京侵略(地球ではない)なのであるが、このUFOがどのようにして作られ、また誰が操縦し、またどこに格納されていたか等の説明は一切無い。東京上空を埋め尽くしたUFOは、荒井の念能力によって操作され、かの大作「インディペンデンスデイ」よろしくビーム光線でビルを粉々にしたり、逃げ惑う街の人間を攻撃したりするが、程なくして仏陀的な「何か」の力によって粉砕される。

 この仏陀的な「何か」の力はTSI教祖・空野の正義の超能力なのであるが、例によってこれだけで対決は終わらず、大津波の幻覚で人心を掌握しようとする第二作戦に打って出たり(これも空野の超能力によって粉砕)、事もあろうに主人公小夜子を東京ドームで人質に取ったり(これも粉砕)、なんだかんだとやり合って後、荒井は破滅し空野の偉大な徳の前に号泣して改心し、ハッピーエンドを迎える。

***ネタばれあらすじ終わり***


 とまぁこんな具合なのであるが、結論を言うとこの作品は世界観の説明が致命的に不足していて何なんだか良くわからない。一応「輪廻転生」という仏教概念を使って説明しているが、天使とか悪魔が出て来たりするので正直仏教なのかキリスト教なのか何の話なのか良くわからない。多分これが、「エルカンターレ」なんだと思われるが、それについての具合的説明は無い。何故かと言うと、余りにこの作品の世界観(教義)を説明しすぎると、露骨な「プロパガンダアニメ」と言うことになり一般向けに宣伝できず、かといってそういった要素を省いた純然たるエンターテインメントアニメにしたならば製作者サイドからみて「作る意味が無い」という構造的ジレンマを抱えたまま最初っから最後まで話が進んでいくことが最大の原因であるからである。


*正義の宗教団体「TSI(何の略なのか非常に気になる)」
代表・大川隆法氏もとい空野太陽(声・子安武人

 また、仏陀の化身的存在である所の空野は、明らかに大川隆法氏の若き日の姿のベルサイユの薔薇的美化であると考えることも出来るだろう、いや確実に出来るのだが、この空野という正義の超能力者がやたらと仏教用語を多用するのである。例えば、劇中で何度も「えんしょうの子」と口にするのであるが、管理人はこれを「袁紹の子」と脳内変換をしてしまった。袁紹とは三国志に於いて曹操と争って敗北した群雄の一人であるが、当たり前の事だか三国志と本作が関係があるはずもなく、家に帰って調べてみるとどうも「縁生の子」というのが正解らしい。宮崎哲弥ばりの敬虔な仏教徒では無い管理人からしたらこの部分にも詳細な説明が欲しいのであるが、如何せん劇中に於いて説明は一切ない。この理由は、先述のとおり「プロパガンダアニメ」と「大衆アニメ」との狭間のぎりぎりの線で妥協した結果だと思う。

 兎も角、事ほど左様に「世界観」がぐらぐらと揺れ動いたまま終わりを迎えるのでどうも釈然としない。いっそのこと、大川隆法氏もとい空野太陽を強烈に全面に押し出したプロパガンダアニメの方が説得力も面白味もあったろうに、妙に主人公・小夜子と勇気の恋愛沙汰じみた話で無難に着地している。ただし、やはり大川隆法氏もとい空野太陽の強烈な神秘性は描かれており、空野氏の説法を受けたものは皆無条件に号泣して改心してしまうと言う凄まじい徳の持ち主である。ちなみに、空野太陽は仏陀の生まれ変わりであり、途中から仏陀の顔と入れ替わったりもする超常の人で、普段どこで何をしてどう生活しているのかは一切描かれていない。人間なのかどうかも怪しい。恐らく、キリスト的な「神の子」として神聖な三位一体を形成する聖人なのだと思われる。

 さて、もうひとつ肝心の作画であるが、最初の導入30分はこれは劇場アニメなのか(ルパン3世の2時間テレビモノ並み)と言うほどちょっと酷いが、程なく中盤から細密なCGを多用したり、特にUFOの襲撃や仏陀降臨時に於ける蓮の花の再現など、凡そ昨今の劇場アニメとしてはまずますの所で及第点に達していると言えよう。この点少し甘口の評価ではあるが殊更目立った抜かりは無いと思われる。ただ、ひとつだけ非常に気になったのは、本作が終始主敵として描いている悪の新興宗教団体・「操念会」(ただし教祖は最終的には改心する)の描写が、本部施設の神殿風の描写を筆頭として、どう好意的に解釈しても霊友会を意識したものになっているような気がしないではない昨今であるが、あくまでもこれは管理人の一過的妄想であり無論「操念会」は本作に登場する架空の団体であって実在しないからそのつもりでご了承願いたい。


 全体的にはこんな所である。管理人は別に何を今更自慢気に告白するわけでもないが、生まれてこの方、葬式仏教は除いてどの宗教団体にも属した事は無い。小中高とまったく平凡な公立学校に進み、キリスト教系私学の教育すら触れたことも無い。無論、巷間に溢れる新興宗教等の個々個別に対して好き嫌い・シンパシーを感じる感じないはあるが、やはり所属しようとか所属したいなどと思ったことは一度も無い。それは、私の中に宗教に対するある種の胡散臭さが常に付き纏うからである。それは、端的に言えば自らの信者に偏見・差別・固定観念の否定を殊更説いておきながら、自らの団体を非難する敵対勢力に対しては辛らつな善悪二分論での判断を迫ると言う独善的な二枚舌が、およそほぼ全ての団体に散見されるからだと言ってよい。

 大変私事で恐縮であるが、折角宗教とアニメと言うテーマになったので軽く触れると、私の実母が10数年前に病気をしたことがきっかけで日蓮系の宗教団体(創価学会では無い)に入った。貯金を全て投げ打って500万円もする壷を購入し、先祖供養といって1000万円もする大理石の墓をローンで買った、といった事は一切無く、慎ましやかに月に数百円だかの会費のみを払って現在信仰の世界に居る(苛烈な信者ではないが)。私は息子ながらに当時、母のことを馬鹿だと思った。信仰に魂の救済を求めるのは無学者のやることだと私は反発した。

 しかし、成人した今となっては母の気持ちも少しは分かるような気がしないでもない。人間は特に病気に罹り、死と直面したとき途轍もない恐怖から信仰に魂のより所を求めるのは仕方の無いことであろう。そして、病気に限らず経済的破綻・人間関係の破滅等という社会的苦難に直面したとき、自分に具体的な法的救済の知識が無く、また回りにもそういう人間が一切存在しないとき、諮らずも宗教的権威に魂の拠り所を求めるのは救済の一選択肢として仕方の無いことなのではないだろうか。例えばそうした彼らがこのアニメの母体団体のような宗教的権威にすがり付いたとしても、私はそのことを決して責められないと思う。

 なぜなら、私自身も弱い人間の一人であるからであり、現在こうして宗教的権威に魂の救済を求めずとも生きていけるのは、それは実は私が強い人間なのではなく単なる偶然の積み重ねの結果でしか無いからに他ならない。私の家庭環境、進学先、健康状況その他もろもろ、少しでも違っていたら、若しくは将来に於いて劇的に変化したら、私は自分が宗教的権威にすがらないほど強い人間であると断定できる自身が無いからである。たまたま現在そうなっているだけで、私がもしも映画「ミスト」*(最下段参照)のような状況におかれたならば、正気を保ったままで居られるだろうか。いや、ミセス・カーモディと共にキリストの名を唱えるかもしれない。仏陀の名を唱えるかもしれない。或いは大川隆法氏に助けを求める可能性だってゼロではないだろう。読者諸兄はどうであろうか。貴殿は例えどんなことがあっても信仰に魂を委ねないと言い切れるほど強いだろうか。どんなことがあっても神に頼ろうとしないと言い切れるか。答えは否だろうと思う。


 アニメーションは突き詰めれば記号であるとはよく言ったものだが、実際アニメ論とは突き詰めれば記号論的である。このアニメも、記号論的に言えば善悪二分・勧善懲悪に終始している。大川隆法氏もとい空野太陽(と主人公を含めその随伴者たち)は絶対的「善」の記号であり、彼に敵対する物は徹底的に「悪」の記号として描写される。この分かりやすい記号的展開は、アニメはとどのつまり線の集積であるという表現方法において宿命的であるが、この余りにも分かりやすすぎるアニメ的記号を、私はいま冷ややかな視線で見ることができる。しかし世の中には、恐らくこのアニメを観て「成る程」と唸ったり更に敬虔な信者としての誓いを新たにする人間も居るだろう。繰り返すが、私はそういった人々を心から馬鹿にすることは出来ない。線の集積を分かりやすく抽象化して表現するアニメと、複雑な教義を抽象化し二分論で分かりやすく表現する宗教、という意味でアニメと宗教(新興宗教)は似ているかも知れない。恐らく、新興宗教が直ぐ漫画やアニメで自身のプロパガンダ媒体を作るのはそこに最大の理由があるような気がしてならない。

 繰り返すが私は宗教に心酔する人々を本気で嘲笑することは出来ない。そして彼らのそういった心理は、人間とは元々構造的にそういう生き物だからなのか、それとも現在の日本社会が救いようも無く病んでいるからの現象なのか、私にはそれもまだ分からないままである。




◎参考資料
映画「ミスト」(監督*フランク・ダラボン

本作では、怪物が襲ってくると言う異常な現象に直面した街の住人たちが、キリストによる福音と魂の救済を偏執狂的に展開するミセス・カーモディ(写真中央)によって次第に狂信的に信仰にすがろうとする人々の群集心理を見事に描き出している。



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