『マイマイ新子と千年の魔法』〜しかし、すぐそこにある希望〜【局地的大ヒットにつき続映を望む】


 遂に観に行ってきました、片渕須直監督のマイマイ新子と千年の魔法。鑑賞館は12月19日〜26日まで限定公開される東京都杉並区は阿佐ヶ谷の「ラピュタ阿佐ヶ谷」。しかし、この作品を観るまでに如何に管理人が過酷な艱難辛苦を乗り越えたのかと言う、北朝鮮風にいえば「苦難の行軍」の道程をまず記さなければならないであろう。


@実録!私がマイマイ新子を観るまでの5日間

 ★【第1日目】遡るところ12月20日(日曜日)、さて阿佐ヶ谷にマイマイ新子でも観に行こうかと思い立った管理人は、21:00上映のスケジュールを確認し、20:50に映画館に到着。しかし、「既に満員でして…」とまさかの門前払いを食らう。同じ建物の地下で多摩美術大学映像演劇学部の卒展が開催されておリ、「東のエデン」の客層を遥かに凌駕するレベルの小奇麗な学生たちが沢山たむろしているのを横目に、「これはCIAの陰謀だ」と涙目になりながら帰宅。ちなみに管理人は高校時代の一時期、多摩美の同学部を志望していたことがあった。結局芸大とは全く毛色の違う総合大学に行くのだが、その理由はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」並の大長編になるので割愛する、と言うのは嘘で単に楽な選択肢を選んだからに過ぎない。

 ★【第2日目】12月21日(月曜日)、では少し早めに行ってやろうと20:30(上映30分前)に映画館に到着。しかしまたしても館員から申し訳なさそうに「満席でして…」と告げられ門前払い。「これはフリーメイソン級の国際的陰謀に違いない」と号泣しながら帰宅。

 ★【第3日目】12月22日(火曜日)、流石の管理人も単なる馬鹿ではない。あっ、そうだ行く前に映画館に電話して空き状況を確認すればよいのだ。と、1日目で気付くべきことを漸く実行した。午後4時(上映5時間前)に架電。しかし受付嬢より「現時点で補助席が3席のみでして…」と返答され諦める。(後に判明するが、補助席と言うのは壁際に設置する丸椅子と階段の段差のところに配置する座布団席のこと)管理人の自宅から阿佐ヶ谷までは電車で1時間程度であるが、何だかんだ言って1時間30分は見なければならないだろう。到着した時点で完売では洒落にならない。ちなみに「ラピュタ阿佐ヶ谷」は如何にもアーティスティックな雰囲気を醸し出す小粋な建物の割に、「ネットリザーブ」という現代的システムを導入していない。チケットを買うには必ず現地に行かなければならないのだ。この時点で管理人は、「マイマイ新子」を諦めてピクサーの最新作「カールじいさんの空飛ぶ家」を観に行こうかと挫折しかけた。近所のTOHOに行けば、広大な駐車場と併設された魅力的なショッピングセンター、上映開始30秒前に行っても絶対に空いている座席、最新鋭の映写機材とクッションチェアーからなる快適な鑑賞空間…しかしここで諦めて良いのか。ここで諦めてTOHOに向かえば、後世の子孫から「腑抜け」「腰抜け」「アニオタ保守本流の名折れ」のレッテルを貼られ、子々孫々まで罵られるのではないか…。枕を涙で濡らしながら「いや明日こそ」とリベンジを誓った。

 ★【第4日目】12月23日(水曜日)、天皇誕生日の祝日であり、管理人はならば車で行こう、と決めた。祝日なので都心部は空いている。首都高を使いわずか40分で杉並に到着、映画館についたのは午後1時(上映8時間前)を少し過ぎたところ。しかし予想だにしない回答。「大変申し訳ありません、既に満席でして…」。「これはガミラス帝国とか白色彗星帝国とかが関与するレベルの銀河的陰謀なのではないか」とほとんど放心状態で帰宅。

ラピュタ阿佐ヶ谷は、JR中央線阿佐ヶ谷駅北口から裏路地を通ってすぐの閑静な住宅街のただ中にある。隣接して広めのコインパーキング(20分100円)あり。車の場合はここに停めるのが吉。

 ☆【第5日目】12月24日(木曜日)、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」の大号令の元、管理人は朝の7時に起きてシャワーも浴びず遮二無二阿佐ヶ谷まで突進してチケットを購入。もうクリスマス・イブとかそんなもの一切関係ない。一旦家に帰って同日の21:00にまた阿佐ヶ谷に蜻蛉返しをして漸く、実に5回目のチャレンジにして観ることができた。


ラピュタ阿佐ヶ谷館内に設置された「マイマイ新子」ブース。


 
 さて、本当に前置きが冗長になって申し訳ないが、(「マイマイ新子」の凄まじい盛況振りの一端でもご理解いただけたと思う)、肝心の本編である。勿論、例によってなるべくネタバレにならないように配慮して書くが、場合によってはネタバレもやむなしの表現もあろう。一切何の情報も必要なし、という読者諸兄は、以下を読み飛ばしていただいて何ら結構である。



 この『マイマイ新子と千年の魔法』は管理人は「大変評判である」という事以外、ほとんど事前情報が無いまま臨んだ。原作が作家・高樹のぶ子氏ということだが、恐れながら不勉強な管理人は存じ上げないし作品を拝読したことも無い。しかしむしろ真っ白な知識で臨んだ方がより客観的に観られると思い、敢えて下調べも行わなかった。さて、結論をいうと号泣。上映中、後半になればなる程、60数名で満杯になる会場の随所からすすり泣きが聞こえる。管理人も本当は派手に泣きたかったが、なんかアレな人だと思われても嫌なので、そこは現代風に言えば「空気を読んで」すすり泣きで我慢した(ちなみに管理人は2006年公開の「時をかける少女」にて、あまりにも声を出して号泣しすぎて周りからジロジロ見られるという経験あり)。

 この作品は、日本が敗戦の荒廃から朝鮮戦争を経てようやく戦前の経済水準に回復し、それを土台にしてまさに高度経済成長と言う上り坂を駆け上がらんとする、戦後日本の本格的夜明け前後、1955年(終戦後10年)の山口県防府市が舞台である。基本的には、この作品の構造は現在(1955年)とそこから1000年前の10世紀ごろ(平安中期)の同じ「山口県防府」と、「周防国防府」が時空を隔てつつ同時にリンクさせながら進むと言う、極めてダイナミックな構成が採用されている。これは、古くは「伴大納言絵詞(ばんのだいなごんえことば)」を源流に、スタンリー・キューブリック監督の「現金に体を張れ」を経て、クェンティン・タランティーノ監督の代表諸作品「パルプ・フィクション」「ジャッキー・ブラウン」「レザボア・ドッグス」等で世界的に有名となり、近年ではガイ・リッチー監督(マドンナの元旦那)の「スナッチ」「ロック、ストック&トゥースモーキングバレルス」等や米テレビドラマで世界的に大ヒットした「24」で完成された構成上の妙味、すなわち『別時間軸連動型(異なる時間、異なる場所の出来事が並行してリンクしながら進む)』映画の典型と言える。

 さて、この極めて牧歌的な防府の片田舎に暮らす活発な少女・青木新子(新子)の学校に、東京から島津貴伊子(貴伊子)という転校生がやって来る所から物語が推進し始める。序盤から中盤にかけての、周囲と打ち解けない転校生・貴伊子が、新子を始め次第に周囲の子供に溶け込んで行く描写がまた絶妙に上手い。管理人は、同じ昭和でも相当後半の生まれなので実体験としては当然存じないが、昭和30年代の片田舎の描写と言うのが実に緻密である。駅前(防府市三田尻)の時代的な考証、野生のトキがうろうろしている田んぼ、木造校舎の様子、家々の内装、ガス冷蔵庫、ウィスキーボンボン、そしてポップコーン売りのおじさんが包装用に使う新聞紙に「チャーチル首相辞任」と見出しがある(イギリスは、大戦中に保守党のチャーチル、ドイツ降伏後に政権交代が起こり労働党のアトリー、そしてもう一度チャーチルが首相交代して結局1955年に辞任)ところも本当に緻密である。

 「1000年前、国衙はこんな風だったに違いない(国衙国衙領律令国家に於ける地方官の領地)」という新子のある種妄想が具現化し、それが一個別の時制を構成して現在(1955年)と並行して進むと言うのは先に述べたとおりであるが、これらの導入部分も非常にファンタスティックで細密な配慮が行き届いている。発掘現場の竪穴から当時現存していたであろう門柱がニョキニョキと実体化し、時制が1000年前に遷移するところなど、極めて映画的演出が工夫されている。また、終盤に1000年前の時制に登場人物が入り込む部分など、まるで今敏監督の傑作「千年女優」を彷彿とさせる演出である。

 作中では一貫して、田園地帯の子どもたちの目線を通じて、のどかな日常が繰り返される。途中、新子の妹が一瞬だけ行方不明になる。「となりのトトロ」の様に村を挙げての大捜索騒動には発展せず、直ぐ警察官に保護されて事無きを得る(本当に一寸なのでネタバレではないだろう)のだが、この警察官が本作終盤にかけてのある種伏線になる。どのような展開になるのかは本作を直接ご覧頂くとして、この前後に新子・貴伊子らの子供たちが人造溜池で金魚を発見し、それに名前をつけて大切にするという所が本作のテーマー的なキーに深く関わってくる。

 彼ら子どもたちは、木刀を中空に掲げて「明日もみんなで笑おう」と誓いを立てる。しかし、先の警察官の一件があり、その誓いが頓挫するという憂き目に合う。しかし諦めない新子は、年長のタツヨシ少年と共に、ある行動に出る所が本作のクライマックス。そして終劇を迎える。この作品でくり返し登場するセリフは、現在(1955年)に於いても1000年前の平安中期に於いても同様に「明日もみんなで笑おう」である。しかし当たり前の事だが、無根拠に自動的に明日が訪れ、バラ色の未来があると言うお話では決して無い。この作品が秀逸なところは、1955年当時にも社会的な闇があり、決して救済されない心の虚無を抱えた人々が現在と同じ様に存在していることを等しく描写していることである。それは平安中期の時間軸ですら同様である。「明日もみんなで笑おう」というセリフは、繰返すが明るい未来の到来が確定している現在を指してのセリフではない。現実は厳しい。平安時代も厳しい(当然だが)。しかし、それでも「明日は今日よりも良い」と信じることができる、そう端的に言えば「希望」そのものである。


 前出の金魚の話に少し戻るが、金魚は直ぐに死んでしまう。しかし、本作の最後で、満点の星空・天の川が明るく照らす夜空の元、田んぼの傍らの用水路で再び新子と貴伊子は金魚を発見する。二人はそれを死んだ金魚と同じものだと合点する。生物学的にそんな事はあり得ないが、これは象徴的な表現である。すなわち、本作で登場する金魚とは正しく「希望」の象徴なのである。この作品が1000年前の平安中期の時間軸とわざわざリンク・連動させて描かれるのはなぜであろうか。それは、「希望」とは時空を超えた普遍的なものであり、例え生命が死んでも「希望」だけは死なない、という強烈なメッセージ性が内包されているからに外ならない。

 1955年当時は、本作を見れば一目瞭然だが、電気は辛うじてあるようだが、「三種の神器」を筆頭に耐久消費財はほとんど普及しておらず(貴伊子の家にのみ冷蔵庫がある、しかしテレビは無い)、人々の移動手段は航空機でも自動車でもなく、良くてスクーター、通常は自転車である。システムキッチンに代表される近代的なガス・レンジなどは無い。一般家庭ではまだカマドを使っている。各家庭に電話線など存在しない。片田舎の娯楽はラジオか、駅前の映画館。兎に角兎に角、圧倒的に物質的に貧相である。国民所得も欧米に比べるとまだまだ圧倒的に落差があるだろう。(尤も、戦後10年経っているので明らかに悲惨な貧困と言うのも払拭されている社会ではある)先の警官の一件でも、現代であるなら、法的な救済によってどうとでもなる話だと思う。破産するにせよ任意整理するによ、弁護士会館に行けば無料相談を受けられるし、行政の介在だってあるだろう。NPOだって力になるかもしれない。しかし、そんな広域な救済ができるほど社会が成熟しておらず、当時の日本は国全体がまだまだ発展途上で、市井の公務員の民事的ゴタゴタよりも兎も角国家全体の経済成長に主眼がおかれた時代である。現在でも格差が言われて久しいが、統計的にはこの時代のほうが遥かに格差が存在した。貴伊子の幹部用の社宅(貴伊子の父は医師)と一般労務者の長屋の描写を見れば明らかである。

 しかしそれでも、この時代の人々、この時代の子供達は「明日もみんなで笑おう」と信じる事ができたのは何故か。現代より圧倒的に物的劣後の時代の子供達が、なぜあれほど明日を信じることができたのだろうか。結論からすると、既に物心ついた時から平成不況が叫ばれて育った管理人には良く分からない。「失われた10年」が、いつのまにか「失われた20年」になった。「希望の無い時代」「出口の見えない不況の時代」「平成暗黒時代」「超氷河期」。バブルが崩壊した1990年以降、現在までの時代は常にこのようにネガティブに形容されている。管理人の世代は丁度、西鉄バスジャック事件・酒鬼薔薇聖斗事件の只中であり、「キレる14歳」と散々呼ばれた年代である。曰く、「将来が見通せない」「希望を見つけられない」「希望を失った子どもたち」etc…。

 私はこの作品を観て、本当に心から涙を流したシーンは、最終盤、先にも書いた通り新子と貴伊子が田んぼの用水路で金魚を再び見つける場面に他ならなかった。新子が家から持ち出した懐中電灯が電池切れで真っ暗になる。すると、夜空には雄大な天の川が姿を現し光を放っている。金魚は希望の象徴と書いた。と同時に、金魚を見つけた二人の背景に広がる銀河の天の川の光もまた希望の象徴であると思う。普段我々が天の川を観ることができないのは、我々が自らをして光を放つその光が邪魔をしているからに他ならない。実はすぐそこにある。希望はすぐそこにある。プカプカと可愛げに泳ぐ金魚も、広大な天の川も、本当は我々の直ぐそばにあるのではないだろうか。我々は自らの心でそれを見ようとしない、見つけようとしないだけではないだろうか。本作では、「希望」とは時空を超えた普遍的なものであり、そして「希望」は我々の傍らにこそ存在すると訴えている。新子と貴伊子を始め、あの牧歌的な防府の田園地帯も、その後高度成長の荒波に揉まれ姿形を変えて行った事であろう。防府といえば現在でも瀬戸内有数の工業都市であるから、もう本作当時の田園風景はあらかた失われてしまっているのかもしれない。しかし、それでも彼女らは「明日もみんなで笑おう」と信じてその後を生きていった違いない。


 我々はどこへ向かうべきか。我々はどう生きるべきか。そして希望はどこにあるのか。この作品はこれらある種人類が悩む普遍的なテーマに対する道しるべを前向きに提示している。どこへ向かうべきか、どう生きるべきか。国家としての大目標(例えば所得倍増計画や五輪開催、大阪万博等)が失われ、或いは意味をなくした90年代以後の現在、個々人の人生的目標や価値は、身も蓋もない事だがその個々人が徹底的に追求するしか無い。できるだけ知識を見に付け、情報ツールを駆使し、兎に角広域に網羅的に自分の特性や興味をそこで活かせると信じられるものを見つけ、世間云々とは関係なく気の済むまで何度でも追求するしか無い。しかし、ひとつだけ忘れてはならないのは、本作の通り1000年前も、1955年当時も、そしてこれから1000年後も希望は普遍的に存在し、そして我々の傍らにあり続けると言うことである。「自分探しの旅」等と怪しげな事を言って、旅に出る人間に本当の「希望」や「自分」は見つからない。「希望」とは悠久の歴史と生命の生死を超えて次世代に受け継がれ、それは確かに、我々のすぐ側にいつまでも存在するからである。



*****片渕須直監督・舞台挨拶*****


12.24、ラピュタ阿佐ヶ谷にて上映終了後舞台挨拶される片渕須直監督(左)


 結果的に天啓と言うか、5日目のアタックで漸く観られた回(12月24日)は、本作の片渕須直監督による舞台挨拶が行われた。監督のお話は要約すると「マイマイ新子の英語タイトルはシンコミラクル(*「マイマイラクル」だったっけな?すみません、記憶が定かではないですが、どっちかであることは確か)」「今年の夏にスイス・ロカルノで上映され、来年(10年)にはパリ等の2箇所の海外映画祭で上映される」「封切り時の上映館の少なさ、あったとしても平日の朝一回のみでは多くの人に見てもらえなかったのは残念。その後話題となり、ラピュタ阿佐ヶ谷が連日満席になったように、これからもより広域に上映される館が増えるよう努力を続けたい」との事。「是非とも皆様のブログ等で本作を宣伝していただきたい」。これは広報担当の方のお言葉。

 更に、本作冒頭で新子と新子妹と貴伊子がウィスキーボンボンで酔っ払うシーンにちなんで、観客全員に1個ずつウィスキーボンボンが差し入れされ、全員で「メリークリスマス!」の掛け声の下「乾杯」ならぬ「乾食」という粋なイベントが実施された。えっ、何、クリスマス・イヴに一人でアニメ観に行くのは悲惨なオタクですって?笑止である。何故なら私はアニオタ保守本流なのですから。という訳で、最高のクリスマス・イヴを満喫した。(ちなみにこの日の観客は90%近くが男性)



*****続映を望む署名活動&本作タイトルについて*****

フリーライター廣田恵介氏のブログ

続映署名ページ

 フリーライターの廣田恵介氏により、『マイマイ新子と千年の魔法』の続映を求める署名活動が行われているようであります。(メールにて管理人へ情報をくださった方、有難う御座いました。重ねて御礼申し上げます)上記本文の通り、この映画は間違いなく我が国アニメ史に残る名作・傑作の部類に入るものであると確信するので、是非とも全国的で長期の続映を配給各社にご要望申し上げたい(絶対ヒットすると確信します)。

 舞台挨拶で片渕監督も仰っていたが、封切り時に確かTOHOシネマズ(*大変申し訳ありません、管理人の勘違いで松竹系の誤りでした。お詫びして訂正いたします。ご指摘いただいた廣田様、ありがとうございます。そうそう、管理人は新宿ピカデリーに行こうと思ったんだ!しかし、朝の9時からという夜型人間や勤め人にとっては殆ど『何かの拷問』の時間しかやっていなかった!なんという扱いの軽さか!)で公開していたように思い、管理人は12月の初旬に行こうとTOHO(同左の通り松竹)のWEBスケジュールを見ると、確か朝の9時から1回のみ上映と言う、極めて不遇な扱いをされていたように思う。これは、事実上「観に来なくても結構です」と宣言しているのと同じであり、作品のクオリティと比してあまりにも不憫である。

 と言うか、朝の9時から1回だけの上映で十分と言うレベルの箸にも棒にもかからないアニメ映画は世の中に沢山ある!と声を大にして言いたい。それにしても、なぜ「マイマイ新子」がこんなにも不遇な扱いを受け、封切り当初観客動員が振るわなかったのか。*出典=小原篤のアニマゲどん(09.12.14朝日新聞WEB)これは若干、製作者側にも問題があるような気がしないでも無い。内容は文句の付けようも無いが、ただひとつ気になる事は本作のタイトルである。『マイマイ新子と千年の魔法』というタイトルは、あくまで管理人の邪悪な主観であるが、例えば「ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌」(世界の亀山)、及び「パコと魔法の絵本」(中島哲也監督)という直近の邦画作品を彷彿とさせるタイトルであるからである。この2作は、2008年度の邦画最底辺に位置する(パコの方はまだしも、特にゲゲゲの鬼太郎の方)と酷評されておリ、管理人が尊敬してやまないライムスター宇多丸師匠がTBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」にて批評している(映画批評界では最も権威があり且つ影響力があると管理人は勝手に思っている)ので興味のある御仁は是非とも観た後に聞いていただきたい。
「ゲゲゲの鬼太郎千年呪い歌」
「パコと魔法の絵本」

 兎も角、本作は残念ながらタイトルで若干損をしている気がしてならないのは管理人だけだろうか。ほとんどアニメを観ない知人に「マイマイ新子を観に行く」と言ったら、「なんか面白くなさそうだね」と即答された。アニメリテラシーの高くない一般ユーザーを劇場に向かわせるためには、タイトルのインパクトが重要であることは言うまでもない。ストレートに、監督が仰った英題『シンコミラクル(或いはマイマイラクル)』で良いような気がする。もしくは、『シンコ☆ミラクル(或いはマイマイ☆ミラクル)』でも良いと思うし(流石に俗っぽすぎるだろうか)、『シンコの魔法』とか単純に副題だけで『千年の魔法』で十分と思うのだが如何だろうか。素晴らしい作品だけに若干苦言を呈したいのも事実である。ともあれ、是非とも全国的な続映の為にも「マイマイ新子」を観た読者諸兄は積極的にブログ等で感想・宣伝をすることが何よりの続映圧力であると確信する。


『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
*『マイマイ新子と千年の魔法』公式ブログ

*感想ブログの記事
たまごまごごはん(09.12.01)
たまごまごごはん*PIXIVのイラスト紹介、感想リンク集・非常に充実(09.12.01)
嗚呼、テレ日トシネマ(09.12.04)
GigaZine(09.12.21)


*報道
産経新聞【シネクラブ】09年 執筆陣が選ぶベスト3はコレ!でマイマイ新子1位、谷口氏選(09.12.25)
因みに別記者の高橋氏は「アンヴィル!夢を諦めきれない男たち」が1位。(全く私と同じ評。産経新聞の記者さんとは感性が合いそうだ笑)
シネマトゥディ/なぜか阿佐ヶ谷で連日完売の大ブレーク!署名活動も起こりアニメ映画「マイマイ新子」アンコール上映が決定!!(09.12.27)



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