うしろの正面だあれ〜戦争と9条〜


@1991年作品。監督:有原誠治、画面構成は「マイマイ新子と千年の魔法」の片渕須直氏。作家・海老名香葉子氏の体験に基づく実話原作の児童書をアニメ映画化。



 中学校の頃みた本作を、今となって見直す機会に恵まれたのであった。中学生の頃の記憶では悲惨な戦争アニメの感があったが、やはりいまの歳になって見直すと、戦前の日本の日常描写が極めて秀逸に描かれているのは特筆するべきであると言えよう。兎に角、戦前日本の風景画ありありと美しく描写されている。

 そも、本作のクライマックスである東京大空襲(S20.3.10)は殆ど後半のみであり、紀元2600年祭にはじまり、1941年ぐらいまで6〜7割がた尺が終了する。きわめて丁寧な日常描写に脱帽。特に”かよ子”が「青い目をしたお人形」の歌を、「アメリカ」の単語が入っているので敵性唱歌だから歌うのを躊躇する場面で、かよ子の母その心情を慮ってリードする部分は極めて秀逸である。この後、この「アメリカ」による焼夷弾攻撃で当の家族が焼け死ぬというのは、なんとも痛烈な皮肉であろう。

 また、大空襲後にかよ子が実家の焼け跡で家族の幻影と別れを誓う後、焼け跡を背にし再び歩き出しかよ子の力強い表情は、かよ子本人の幼少期よりの脱皮と、そして戦後日本の復興への誓いの象徴でもある。

 本作では、ナレーションとして「当時中国を侵略をしていた日本は…」とか、「身の丈にあわない戦争をして家族の破滅を招いくことになるとは知る由も無かった…」とかが出てくるが、敢えて私はこの部分を論評しないが、ニューギニアに出征した叔父が戦死した知らせを受けてかよ子の母(戦死した叔父は母の弟の設定)が号泣するシーンや、日米開戦の直前に父が「日本はドイツイタリアと同盟を結んでいるからアメリカも手がだせんのだ」の台詞や、沼津で山に避難する地元民の憶測が混じった会話など、これら”国民の皮膚感覚”のような描写は極めて緻密な描写である。

 そして極めつけはかよ子が縁故疎開で静岡の沼津に行くシーンは、実はこれは今生の別れになるのであるが、そのことを暗示的に予感させる音楽の挿入も上手い。

 いずれにせよ、本作は東京大空襲をクライマックスに、戦前、戦中の日本の日常をこれでもかこれでもかと克明に描写することによって、逆説的に戦争の悲惨さ、戦争の非道さを訴える傑作に成っている事はいうまでもない。

 本作は血しぶきが飛び、銃弾入り乱れる正統派の戦争映画、ではなく戦時中の日本の日常風景を切り取った、静的家庭ドラマ、といったほうが妥当かも知れぬ。しかしその日常が美しく、またごくありふれた日本の原風景であればあるほど、その後に来る破壊と殺戮をして、われわれ観客に戦争への怒りを新たにさせるよう緻密に設計されている。その意図を読み取らんとしたとき、われわれは不戦と戦争への憎悪の決意を再確認することが出来るだろう。

 自分の息子が戦場に行くことを喜ぶ母親は居ない。自分の家族が戦火で焼かれて「国のため」と即納得する人間は居ない。戦争は人類文明と人道正義に対する最大の冒涜であり、もっとも激烈で凶悪な鬼畜非道の絶対悪であると私は思っている。だからこそ、われわれは本作で戦争への怒りの決意を新たにするとともに、二度と再びこのような戦争の惨禍が起こらないよう、二度と再びこのような悲劇と過ちを繰り返さないよう、憲法を改正し、自衛軍の存在を明記しなければならない。

 自主憲法を持ち、国軍を養うことは戦争の準備ではなく平和建設の為であることは忘れてはならない。憲法を改正し、軍隊を持つことは戦争屋の真似事ではなく、ひとえに平和への切望であることを忘れてはならぬ。本作を見直して私はそのこと改めて心中に打刻したのである。

 本作の原作者・海老名香葉子氏は現在も反戦平和の活動を続け、日本共産党の関係者として活躍されているそうだが、平和の尊さ、戦争の残酷さの訴え、という点では全く同感である。ただ一点私が違うのは、平和実現のための方法論、それだけであるのだ。


 ちなみに、本作に登場する”キー兄ちゃん(喜三郎・東京大空襲を唯一生存)”は、

↑キー兄ちゃん(喜三郎)


↑江戸釣竿職人の代表的存在である、中村喜三郎氏がモデルであり、氏は現在も職人界の第一線で活躍されておられることを記す。


テレビ東京 巧の肖像「江戸和竿師 中根喜三郎(なかね・きさぶろう)」



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