涼宮ハルヒの憂鬱・12話ライブアライブ・フィルムに具現化された奇跡

aniotahosyu2007-08-17

さて、読者諸兄もご存知、涼宮ハルヒの憂鬱である。本稿はいわゆる”神回”等と評される第12話・ライブアライブについてであるが、これはもう”神回”という形容が正しいのかそれとも”精霊の降臨”と呼ぶにふさわしいのであろうか、それとも”人類史的な奇跡”と呼んでいいものであろうか。兎に角、この第12話は日本アニメーション史、いや近代日本史いや世界史に燦然と記憶される「フィルムに具現化された奇跡」であろう事は衆目の一致する事実であろう。

もし、懸命なる読者諸兄が、この第12話を万が一見ていないというのであればこれはもう万難を排してでも、例え天変地異が起こる中であっても、衆議院議員総選挙中であっても、府中刑務所の独居房の中であってもこれは見ていただかないと困る。困るというより寧ろそれは貴殿の人生の中での重大なる損失になるであろう。と、前フリはここまでとしても、いや12話は本当に神がつくりたもうたフィルムなのではあるまいか、と勘ぐりたくなる完成度を誇っている。いわんや、「主はまずはじめに天と地をおつくりになった。その次に涼宮ハルヒの憂鬱第12話をおつくりになった」である。

管理人は、まずこの12話の、いわずもがなハルヒのライブシーンを見たときに、これは「勝負あった!」と思わず大声を出した。そして着の身着のまま部屋を飛び出し東海道新幹線に乗り、御殿場で降りて富士山に登頂し、山頂から「京アニ万歳!」と叫んだというのはジャパニーズ・ジョークだが、何が勝負あったのかといえば、2006年以降、日本のアニメーションシーンのトップランナー京都アニメーションになったという事である。即ち、涼宮ハルヒの憂鬱第12話によって、京都アニメーションエヴァ以降、大きく変質した日本アニメシーンの新たなるパイオニアであり新星でありリーダーであり業界の牽引者になった、という事である。

まず、最初のキャプチャ画像であるが、これは視聴したなら分かるが、ライブカメラを意識して微妙に前後左右にぶれている。いわゆる、ハンディカムを持った撮影者が舞台上に居るかのように見せる手ぶれ手法であるが、今回京都アニメーション涼宮ハルヒの憂鬱において、テレビ版第1話をしてそうであるように、極めてハンディカム撮影に近いような演出にこだわっている。これは革新的である。あのエヴァンゲリオンにおいても、特撮撮影を意識した演出は多用されているが、ハンディカムを意識してアニメフィルム化し、作品的に成功しているのは管理人の知る限り本作が唯一であろう。

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そして、ハルヒの余りにも卓越した歌唱力そしてバンドの演奏能力に、観衆が次第にリズムに乗ってくる場面↓、

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そして問題のハルヒの絶叫シーンのアップ↓である。こんな凄まじいカットあなた見たことありますか?いや無い。無いですよ。

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そこで畳み掛けるように観衆の興奮が一気に沸騰する↓、

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ハルヒとメンバーが舞台に登場してから実に演奏終了までのわずか実尺で3分間、これで京都アニメーションの評価とその将来のすべてが決まった、といっても過言ではない。管理人はこの3分間を勝手に「奇跡の3分間」と命名する。はっきり申し上げるが、いまだかつてアニメでも、実写でもそうであるがライブをこのように”魅せた”演出は本作を除いて皆無である。何かもう、この3分間を形容する言葉が見当たらないが、敢えて言うなら「圧倒的」そう、「圧倒的な演出力」この一言に尽きる。正直に申し上げて、管理人はこのシーンで余りにも凄まじい圧倒的な演出に圧倒されて、涙が出てきた。これホント。いやなんかもう、語る言葉が無いね。アニオタとして語る言葉が無い、というのは保守本流失格かもしれないけれど、それだけのものがこの第12話にはあるよね、うん。

さて感傷に浸るのはこれくらいにして、ナレーターであるところのキョンの心情描写の緻密さも特筆に価しよう。「学園祭なんて下らん」と世を斜に構えて見るのが常であるキョンであったが、さすがにハルヒのライブに触発されて、魂の中でふつふつと湧き上がる何かをかすかに感じたに違いない。それが、「リズムを指でとる」↓のカットである。周囲が全身を使ってイケイケドンドンガッハハと騒いでいるレベルなのに、自分の参加する領域は指だけ。でもこの指だけ、というカットがまた極めて的確である。「世の中のなんと馬鹿の多いことか」と若干見下した性格のキョンは、しいて言えばわれわれオタクの代弁者である。

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即ち、周りのリア充の馬鹿騒ぎを傍観しつつ、自分はそこに加わるわけでも無いので、常に自らのポジショニングは斜に構えるという、言い換えれば「内向的性格への免罪符」であるわけであるが、この心情は一度でも世間様から「オタク」と後ろ指を差されたことのある読者諸兄ならば痛いほど理解できる感情ではないか。いや寧ろ、このブログを読んでいる諸兄全員はそうであるはずであると勝手に断定する管理人であるが、要は何が言いたいのかといえば、われわれオタクにはロクな青春(高校)時代など無かったといいたいのである。

逆説的にいえば、ロクな青春(高校)時代ではないものの、つまり「糞みたいな青春」の対義語は高校に於ける学園祭である。本作、第12話で描かれるキョンの言動全てが、ロクな青春(高校)時代を送ってこなかった、若しくは送れなかった者へのオマージュであり、そしてロクな青春(高校)時代を送っていないはずのキョンが、例え指先だけでも”何かどろどろとして熱いモノ”に触れる接点があった、というこの指先のカットこそがわれわれオタクにささげる京都アニメーション、そして涼宮ハルヒからの最大級の応援歌に他ならないのである。

そう、まさに本作12話は、京都アニメーション「新しいオタクによる新しいオタクアニメの時代がたったいまスタートしたぞー」という大宣言であると、管理人は受け取った。いやはや、とてつもないアニメをお造りになりましたなー。




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