『島耕作』に猛烈な不快感を覚えるのはなぜか

島耕作が待望のアニメ化!?社長シリーズを記念してだろうか、スペシャルサイトと言うものを観た。(ネタが古いね,5月末かよ)
http://shimakosaku.net/top.html
 *なんか、背景にプレミアムモルツとか如何にも講談社とつるむ資本家がやりそうなことだ。ちょっとふざけている。しかも、島耕作ちょっと声が若すぎないかな・・・。「スーパーサラリーマンの肉声を聞け」って、社長になったら資本家ではないのか。元サラリーマンとしての島耕作か。

 それはそうとして、唐突だが、管理人は毎週木曜日になると欠かさず週刊『モーニング』を買うようにしている。管理人が定期購読する漫画雑誌は、実はこのモーニングだけであるが、毎度毎度、弘兼憲史の『島耕作』シリーズには吐き気を感じずにはいられないのである。かわぐちかいじの『ジパング』は相変わらず作者の原爆アレルギーが抜けない偽善漫画だがまぁ面白い。時々載ってる井上雄彦バガボンドは、あまりに連載が時々過ぎて誌面で読まず単行本を買うようにしている。すぎむらしんいちの『ディアスポリス』は鉛筆画っぽいので最初取っ付き難いが単行本で読むと深みが増す。山田芳裕 の『へうげもの』は近年稀に見る良作だし、東村アキコの『ひまわりっ健一レジェンド』は大のつくファンである。うえやまとちの『クッキングパパ』は平和な先進工業国・日本に生まれたことの喜びを再認識させてくれ、山崎紗也夏の『シマシマ』は管理人はこういう系統の漫画が大嫌いだがなぜか1話から読んでしまう構成力を持っている。そして週刊連載になった福満しげゆきの『僕の小規模な失敗』は、同氏の『まだ旅立ってもいないのに』をアマゾンで取り寄せるくらい入れ込んでいる。こうしてみると、現在主だったモーニングの連載陣にはなるほど、と唸る実力派ばかりなのに、何故か弘兼憲史の『社長・島耕作』(ちょっと前に社長になったんだっけ?)ははらわたが煮えくり返るほどの不快感と吐き気を覚えるのは何故だろうか。

 『OL進化論』の秋月りすが「35歳で独身で」というタイトルの4コマを何百篇描こうが不愉快にはならないし、サラリーマン奴隷からの搾取の上に優美な生活が成り立っているという自覚が微塵もない、都会のプチブルの日常を描いたサラ・イネスの『誰も寝てはならぬ』は本当はすごく腹が立つが猫が可愛いし、ほのぼの作風でつい読んでしまう。何故、弘兼憲史の『島耕作』だけがこんなに腹が立つのであろうか…

 管理人は東急田園都市線の車内で、何故弘兼の『島耕作』がこんなにも、モーニングの連載陣の中で突出した不快さを放っているのか、ずっと考えていた。夏の平日の午後3時、車内には沿線の大学の体育部員と思われる女子が、日に焼けた顔で携帯をいじり、年金受給年齢を当に過ぎたと思われる老婆が、夏のまぶしい日差しから逃げるように目を閉じてまるで置物のように座っている。ラッシュ時とは打って変わって、車内はがら空きだ。「都心さえあこがれる街・二子玉川」などと、マンションデベロッパーが田舎から上京してきた見栄っ張りのサラリーマンたちを鴨に、馬鹿の一つ覚えの様に喧伝する車内広告も、普段なら「二子玉川?笑。もともと低湿地じゃん…見栄のために3割り増しでマンション買うのかよ…」と心の中で皮肉ってみるのだが、そのときの管理人は何故『島耕作』がこんなに不愉快なのか、その理由ばかりを自問自答していた。

 電車が桜新町を過ぎ、三軒茶屋を越えてそろそろ渋谷というときに、管理人はあるひとつの結論に達した。同じ弘兼氏の『黄昏流星群』にはそれほど不愉快さを感じない。管理人は50歳を過ぎた中年男性ではないし、まして妻帯者でもなければ当然不倫などしよう筈もないが、それまでの人生を不本意に生きてきた中年親父が不倫相手との関係を通じて新たな人生の可能性に目覚めていくという話は、不愉快どころか何か希望を感じさせるポジティブな漫画としてむしろ好感を持っている。管理人の『島耕作』に対する堪らない不快感は、弘兼氏の描く漫画のタッチや話の構成では無い。『島耕作』には、シンクグローバル(笑、サムスン電子(劇中ではソムサン)笑、インドの中間層(笑、CEO(笑、敵対的買収(笑、ポイズンピル(笑、M&A(笑…などと、(笑)を付けなければ書くのも恥ずかしいような時事ネタ・時事単語をこれでもかとふんだんに使用しているが、管理人の感じた不愉快の根本とは、こういった月刊プレジデントとか東洋経済とかで馬鹿の一つ覚えの様に書きなぐっている単語の使用ではなく、そういった単語の無遠慮な多用を通じて、まるで世界のことを全て分かった気になってしまっている、CEO笑「島耕作」ひいては弘兼氏の安易性と傲慢性に他ならないことに気がついた。

 当たり前だが、グローバリゼーション(笑、というタイトルが踊る雑誌を読んで世界経済を分かった気になる事は容易いが、実際にわれわれが住むこの現代世界はそんな馬鹿みたいな単語の一つや二つで表現できないことだらけである。当たり前だが、管理人を含めてわれわれには「世の中について知らないことのほうが多い」のであり、どんな事情通や情報通でも、「世界についてはまだまだ未知の領域がある」という謙虚な認識姿勢こそ、いやそれこそ謙虚などではなく事実そのものに対しての認識なのであるが、必要なのではないか。弘兼氏の描く『島耕作』シリーズには、特に専務・社長と昇格していく最近の同シリーズには、殊にそういった基本姿勢が忘れ去られている。作者が歳を取って作品の知名度も向上し、もはや押しも押されぬ漫画界の大家である事は認めるが、少し傲慢になったのだろうか。それとも、社長になった島耕作という二次元キャラクターの構造的な宿命なのだろうか、まるで世界を分かった様な気分になったCEO(笑、がインドだの中国だの韓国だのを飛び歩いている様は、最早醜態以外の何者でもない。

 「インドには10億人の人民が居り、その中の2億人は中産階級で、毎年のGDP成長率は8%を超える…」という事実を漫画として島耕作に語らせたところで、それはNHKスペシャル経団連の提灯番組に等しいワールドビジネスサテライトで毎回やっていることだし、多分弘兼氏もそういう誰もがアクセスできるメディアを通じて情報を仕入れ、漫画の風景のために取材旅行に行ったりしているらしいが、それだけでインドという国を分かった気になっているとしたら、それは極めて愚かな慢心であると言わざるを得ない。弘兼氏に聞いたら、そんな事はないよ!というのかもしれないが、実際に読者に伝わる漫画描写のすべてからその「慢心」が読み取れるのであるから、弁解の余地はないであろう。仮に、100歩譲って弘兼氏が近代インド史の専門家だとしても、インドという国を語る際「BRICSの一角である」などと一括りにはできないであろうし、専門家であればあるほどそういった表現は避けるであろう。

 まさに、宮崎駿作・漫画版「風の谷のナウシカ」劇中、聖都・シュワの墓所で、産業文明が残した碑文を解読する科学者(高僧)たちが、「その一文でさえも、われわれ教団が全精力を傾けても解読するのに時が足らぬのだ」の言葉のとおり、われわれには、グローバリゼーション(笑、という言葉ひとつの真意さえも、咀嚼するのに時が足らぬのだ、という位の謙虚さが必要であるのではないだろうか。

 インドには10億の人民、中国には13億の人民、ヨーロッパには6億、アメリカには3億、そしてわが国には1億3000万人の人間が住み毎日笑ったり泣いたりして生きている。そうした人類の営みを、シンクグローバル(笑、だののプレジデントだか何だかで聞きかじった単語なのか造語なのか知らんが、そんな一言で分かった気になっている漫画・島耕作には最早何の魅力もなく、ただただ後味の悪い不快さを感じるだけである。



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