愛ある体罰など存在しない


大阪府立桜宮高校(MSN産経より)

 今日の朝日新聞(2013.1.10)の”天声人語”では、10年前にイギリスで行われた子供たちの体罰反対デモに言及されていた。「愛の鞭は存在しない」などという内容の手紙を英首相に手渡すなどし、その後英国では体罰が法律で違法化されたという。今回、大阪市の桜宮高校でバスケットボール部に所属する男子校生自殺事件を受けてのコラムだったが、朝日新聞ながら良いコラムだと感心した。何より、体罰の当事者である学童が自ら体罰の禁止をデモで訴えることができる環境を羨ましく思った。

 体罰、の問題には必ず「肯定派」側から「愛ある体罰は肯定されるべき」との意見が出される。実際、桜宮高校の加害者教諭(47歳)の体罰を経験した周囲からも、少ないながらも肯定的とのニュアンスを訴える生徒なども居たとされる。

 しかし、体罰の根本的な問題はそれが圧倒的な上下関係者を根拠に行われる、という点だ。「私のほうが上で、君は下」というそんな生やさしいものではなく、支配者と被支配者という、圧倒的な力関係の範囲内で行われる暴力を「体罰」と形容している。それはオランダと植民地にされたインドネシアの関係や、イスラエルガザ地区の関係性と似ているが、植民地の住民やガザの住民は人口が多いので、時として徒党を組んでその暴力に抵抗することが出来るが、中学生や高校生は個人なので連帯することもできない。圧倒的に弱い個人に行われる専制的な暴力は、単に「体罰」と形容するのを躊躇われる程の暴虐性を含んでいる。

 桜宮高校の自殺事件で、加害者である47歳の教諭は、例えばもし彼が大学の講師や教授(そんな教養もスキルもないと思うけれども)であったとしたら、同じように「体罰」をゼミや講義のお教え子に下していただろうか。答えは絶対にノーだ。中学・高校では教員の暴力が問題になるのに、大学の学部(院については私は進学していないからわからない)で物理的な暴力という形での「体罰」問題をついぞ聞いたことはない(セクハラを除く)のは、大学生は高校生と違って体に訴えなくても頭で理解できる学力を有しているので体罰の必要はないとか、そういう理由ではなく、単に中学生や高校生に比べて学生の立場が圧倒的に強いからだ。

 中学生や高校生は、不登校で周囲から白眼視されたり、内申書や大学等への進学があるので、とりわけ教諭や教員に対して立場が圧倒的に弱い。大学生のように嫌なら授業を変えるとか単位を落とすとか学校に行かないでバイトに励む、という逃避の手段が殆ど無い。「霧島部活やめるってよ」(吉田大八監督)に描かれた地方の進学校ですらも、いじめや体罰は描かれないが、独特の得も言われる閉鎖性・ムラ性のようなものに満ちている。それが高校までの日本の教育環境だ。

 そういった逃げ場のない、抵抗の手段が皆無であることを確認して、「体罰」は行われる。要するにこいつは絶対に反撃してこないことを周到に計算した上で暴力が振るわれる。自分が圧倒的な上下関係の頂点にいるということを十分に自覚し、確認した上で暴力を振るう。何のことはない、「いじめ」と同じ構図である。いじめをする加害者は見境なく暴力を振うわけではない。かならず自分より圧倒的に弱く、反撃の可能性がほぼない人間に絞って暴力に訴える。要するに品定めし、攻撃可能かをじっくり調査している。

 この様な人種のことを私は「屑」「ゴミ」と呼ぶが、もしそれでも「愛のある体罰は必要悪」であるというのなら、是非その体罰とやらを上下関係の枠の中ではない、自分よりも目上の人間に対しても同様にやっていただきたい。愛とやらは上下関係の中だけに適用される形容詞なのか。おかしいではないか。愛は上にも下にも平等のはずだ。今回、加害者となった教員は、同じ高校の教頭や学校長や、教育委員会の人間に対しても同じように「愛のある体罰」「教育的指導(AKIRA風)」とやらで彼らの不正や姿勢や怠慢に義憤し殴りかかるのであれば、体罰の正当性は証明されると言えよう。それをやるんであれば私はこの教員を擁護する。しかしそれができないのであれば、やはり「体罰」は圧倒的な強者が弱者を一方的に虐げる悪逆な植民地総督の残忍性と何ら変わることはないだろう。


ドイツ映画「es」(2002)

 2002年にドイツで公開され、世界的にヒットしたB級映画「es」(エス)を観たことのある人が多いと思う。1971年にスタンフォード大学で行われた監獄実験をモチーフにした映画だが、数十人の被験者を無作為に「看守」と「囚人」に別け、彼らの感情の変化を追うフェイク・ドキュメント映画の一種だ。「看守」役になった被験者たちは、やがて傲慢になり、囚人役の被験者に暴言や暴力を振るうようになり、秩序は崩壊、本当の殺し合いに発展するというストーリーだ。

 この映画で重要なのは「極限状態で人間はどうなるのか」とかそういったことではなく、「人間の最も強い快感は、他人をコントロールすることである」という人間の本能の部分を提示したことである。私には、桜宮高校の加害者教諭に、この映画「es」の看守役の姿がフラッシュバックして悪寒がした。高校というムラ的な閉鎖空間の中で、圧倒的な上下関係の頂点に位置する学校の教員は、やがて暴言を吐き、平気で平手打ちや暴行を加え、そして流血の惨事に発展するまで自らの異常性を疑わない「es」の看守役の男たちと重なる。

 しかし本当に恐ろしいのは、「es」に登場する看守役は、一度実験場の外に出れば、スーツを着てネクタイを締めて、ビジネスバッグを持って地下鉄に乗るような、ごく普通の平凡な市民に過ぎないという点である。「他人をコントローすることがもっともな快感」という人間性の本性は、実はしごく普遍的な闇として我々のすぐ傍らに横たわっていることを示している。

 私が通った小学校・中学校・高校には本当にゴミのような教員が多かった。私自身、残虐な体罰を直接受けたことはないが、やはりきわどい事例は何度も経験した。特に悪かったのは中学校時代で、人間のカスのような教員が平気で教壇にたって、些細なことで男子生徒を日常的に蹴ったり、あまつさえ体育教師が女子生徒に平手打ちを食らわせているのを目撃したりした。その教員の顔も名前も今でも覚えていて、検索するとまだ札幌市内の別の学校にいるらしいが、今でも早く死ねばいいのにと思う。

 しかしそんな彼らの態度がころりと変わる日があった。学校の開放日(参観日)で父兄が訪れる日は、まるで聖人君主のような柔和な顔つきになり、怒鳴ったり蹴ったりはしない。本当に「愛ある体罰」が存在するのなら、誰にはばかることもなく父兄の前で行えば良い。しかし自らにこそ最大のやましさがあるから、学校が閉鎖性を解放するときに限ってかれらは大人しくなるのである。自らのやましさを自覚しつつも、圧倒的な上下関係の中で、自分より下の人間をコントロールする快感に、彼らは逆らえなかったのである。戦中、学校の教員は自ら率先して教え子を戦場に送り出す先鋒に立った、と日教組は自ら反省している。それが本当かどうかはわからないが、「他人をコントロールする快感」に日常的にいる学校教員が、翼賛体制の一翼を担ったという理由は分かる気がする。戦後は反戦平和に変わった学校現場だが、彼らは「他人をコントロールする」という基本的な快感は変わっていないような気がする。実は中学・高校の教員と、ファシズムは根本的に親和性が高いのかもしれない。勿論私はそうではない良心の教員をたくさん知ってはいるが。

 繰り返すように、私は学校の教員を全てゴミだとか屑だとか言っているわけでもないし、「es」のように、教員ではなくとも誰しもが残忍性をむき出しにする普遍的な危険性を有しているといえる。しかし繰り返すように、「体罰」が「自分より圧倒的に目下の人間に対して行われる残忍な暴力」である以上、絶対にそれを肯定することはできない。「体罰」は学校空間という特異な閉鎖性を伴った空間だから発生する人間の残忍性であり、決してそこに「愛情」などは存在していない。

 体罰を受けた側が「嗚呼、先生が殴ってくれてよかった」等と思うのは、余程その程度が軽いか、それともマゾ性を有しているかのどちらかで、ほとんど被害者は例外なく報復感情を覚える。私は今でも、大きな体罰ではないが言葉の暴力を受けた中学校の教員に対して、法が許すのであれば何処かでばったり合う偶然を装って半殺しにしてやりたいという報復衝動に駆られることがある。暴力が生むのは愛ではなく報復と恨みだ。

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※思い出の北大学力増進会

 私は中学生の時に、地元の学習塾北大学力増進会という所に通っていた。当時から札幌市内では大手の地元学習塾で、それなりの月謝もするので主に教育熱心な家庭の子供が通っていた。高級塾というイメージがあった。その頃から本州に進出してはいたが、近年では東証1部に上場まで果たし、私が通っていた頃とは比べ物にならないほど規模を拡大しているという。そんな「増進会」の中でひとつエピソードがある。毎回、生徒にヤクザ調の暴言を吐きチョークを飛ばすアルバイトの講師Aが居た。北海道大学卒の若い男で、地元では北海道大学以上の偏差値の大学が無いので、北大卒者は東大か京大と同列に近い権威性があった。

増進会」が関心なところは、当時既に、毎週一回か毎月一回か忘れたが、生徒たちに指導している講師を採点させるという逆アンケート評価システムを採用していた点である。狭義の「体罰」とまではいかないが、暴虐無人な彼の振る舞いに我慢できなくなった私は、同じクラスの級友2〜3名をオルグって、「アンケートにあの講師Aがしている暴力的な振る舞いを書いて告発しよう」ということになった。すると、投書からものの数日と立たず、幹部の講師が教壇にたち「講師Aは我が塾の指導者にはふさわしくないと判断し、解雇しました。みなさんは気にせず、新しい先生のもとで勉強に励んで下さい」というような結末になった。生徒の声を聞いて、きちんと調査してくれたのだと感動した。

 「増進会」は私の成績向上には役立たなかった(塾が悪いのではなく私がサボっていたので)が、実にこの点は今でも素晴らしいと思っている。要するに、オープンな市場原理が採用されている現場では、「体罰」も「暴言」も淘汰されるということを言いたいのである。本当に愛のある暴言や威圧であれば、この講師が罷免されることはなかった。単に上下関係を借りた居丈高な行為、と認定されたからこそ彼は解雇された。実に客観的な判断だと思う。講師Aはきっと学歴だけが誇りの、塾の一歩外に出たら平凡なおとなしい男だったのだと思う。自分の言いなりになる、圧倒的に目下の中学生を前に、「他人をコントロールする快感」に目覚めてしまったのだろう。無垢な中学生を相手に、ヤクザのような口調で威圧したり激昂したりするのは、外から見ると本当に恥ずかしいことだが、「看守」役になりきっている当事者の彼には分からなかった。本当に哀れな男だと思う。

 「他人をコントロールする快感」の虜になった人々の中に、特に中・高校の教員が多いというつもりはないが、市場原理が働く民間の学習塾と違って、公教育の現場は特に根が深いと思う。今回、桜宮高校で暴行罪が問われている教諭は、きっと自らが実刑判決を喰らった後、薄暗い監獄の中で、初めて自らが「コントロールされる側」の悲哀を味わうであろう。出来ることなら刑死を以って償うべきである。

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