庵野監督、疲れちゃったの?エヴァQ評

 例えて言うならひどい船酔いになった気分。これが私がエヴァンゲリオン新劇場版:Qを見終わった後の率直な感想である。前作「エヴァ破」から約3年を経て待ち望んだ続編の印象は、「膨大なCGグラフィックという名の巨船の中でひたすら上下左右に揺さぶられた95分間」だったと言えよう。

 なるべくネタバレを避けて欠くつもりだが、実は本作、ネタバレをしようにも理論的に話になっていないのでそもそもネタバレに配慮して筆を進める必要もないかもしれない。上映が始まって感じたのは、「何故この時期にエウレカセブンの二番煎じをやるんだ?」という疑問ばかりであった。我々が見たかったのはゲッコーステイトではなくて、あのシンジでありアスカでありミサトさんであり綾波であったはずだが、一部を除いて序・破とは全く異なった世界観が提示されて面食らった視聴者も多かろうと思う。

 異なる世界観を提示するなら提示するで良いと思うのだが、そもそも本作「Q」の世界観というのは一体何なのだろうか。ひたすら破壊された世界でピョンピョン飛び回るエヴァ「達」。それは美麗でよく動くのだが、肝心の「土臭さ」が微塵も感じられないばかりか綺麗サッパリと消滅しているのはかなり残念である。

 新世紀エヴァンゲリオンという作品は、死海文書とかロンギヌスの槍とかセントラルドグマの巨人とか旧約聖書が云々とか、そういったメタファーの謎解きとか解釈は取り敢えず置いておくとして、大前提的にSFとして極めて完成度の高い作品であったことは言うまでもない。第三新東京市の壮麗な舞台設定と、戦略自衛隊の装備品は、2015年のエヴァ世界の日本、そして世界の状況の説明により見事に修飾されている。つまりシンジ君が通う学校も、ミサトさんが住んでいるマンションも、戦自の戦力(ポジトロンライフル)も、そのSF的裏付けが完璧だったからこそ、あの世界が異様なリアルとして映った。

 2015年(TV放映時は95年)なのに瓦屋根の日本家屋が現存している設定も、奇妙な土臭さを与え結果として本作のSF的完成度に寄与した。登場人物が私服と制服を使い分けている点もそうだ。部屋に入るとちゃんと着替える。台所があって料理を作っている。汚いリビングでビールを飲んでいる。SFでありながら、そのフィルムの端々に映るそういった生活の土臭さの片鱗こそ、実は新世紀エヴァンゲリオンの最大の魅力の一つだったし、それこそがエヴァの非現実性をSF的に担保している世界観であった。だから唐突におかしなフォルムの使徒が出てきても大丈夫だった。エヴァに於ける登場人物の生活空間が現実と並行だからこそ、本来両方嘘であるはずが使徒だけを異物として我々が受容できた。優れたSFとはそういうものだと思う。その圧倒的なSF世界の緻密さが、エヴァの全てだったと言っても過言ではない。

 翻って、今回の「Q」はどうか。何となく新ノーチラス号に似ている新鋭艦?と、エヴァ初号機を起動する装置、旧式の軍艦など、それら軍事力を支えるSF的裏付けが全く見えてこない。パンを咥えて走るシーンの一つでもあればよいが、そういったSFを支える生活の部分が「破」ではあったのに、「Q」では見事消し飛んでひどく観念的(いやもう確信的とでも言おうか)で浮き上がったとめどない台詞にかき消されている。

 あの軍艦を誰が作り、補給はどうしているのか。世界があんなふうにめちゃくちゃになったのに、あの部隊はどうやって運用されているのか。食料生産はどうしているのか。風呂は。セックスは。SF的世界観の広がりが全くない。その証拠に「破」ではあった弁当だのサンドイッチだのの描写が「Q」では味気のない寒天ゼリーのようなものひとつだけに変貌してしまっている。この辺り、「フード理論」を用いて福田里香先生に解説していただきたいものだ。そういった生活や世界観の裏付けを、全く考慮しない脚本的必然性も私には感じられなかったばかりか、繰り返すようにエヴァンゲリオンという作品はその部分を徹底的に描くことによって初めて成り立つSFだったのだ。それがなくなっては単なる、それこそデート向けのおしゃれ映画である。

 無理やりこじつけるとすれば、本作「Q」は庵野監督の「式日」のテイストにやや似ているが、「式日」は実写映画だからまだ鑑賞に耐えたのであってアニメでそれを95分やられると実に辛い。

 多分いろんな事情があったのだと思う。数日前の産経新聞にはエヴァンゲリオンのタイアップを行なっている企業の一覧が載っていたが、有名企業が軽く10社くらいあった。1995年のTV放映時、それに1997年の旧劇場版ではせいぜいUCCの缶コーヒーぐらい(新劇場版でもタイアップしている)のもので、その頃に比べればエヴァンゲリオンの「社会的地位」は便衣兵と近衛兵ぐらいの差になり、当時をリアルタイムで体験した私からすると隔世の感がある。

 そういった中で、制作費やスケジュールや関連企業の関係で、庵野監督を含め首脳陣の苦労は推して知るべしである。但し、私は例えば劇中でシンジ君が綾波綾波でないと知りショックを受けるシーンなどでの「ふらふら」と輪郭線が多重になる映画的に陳腐な演出などの一つをとってみても、やはり「疲れているのかな」と一抹の不安を感じずには居られなかった。多分絶頂期の庵野監督はこういった安っぽい演出はしないのではないか。

 エンドロールが全て終わった段階でその予感は確信に変わった。明らかに「Q」に先立って同時上映された巨神兵東京に現る」の完成度の方が圧倒的に高かったからだ。嗚呼、これは特撮大好きな庵野監督が本当に好きで好きでやりたかったことなんだなと。「風の谷のナウシカ」の巨神兵ビーム発射の有名な場面に携わった庵野監督の自己流の好き放題リメイクなんだなと、「巨神兵東京に…」を観ていてそう感じた。だからこの短編特撮は凄く楽しかった。凄く楽しかっただけに、そのあとの「Q」が見劣りしてしまったのかもしれない。

 「破」で三歩も四歩も「人間的に」前進し、庵野監督の性格自体が1995,97年当時と違って明るくなったであろう(結婚の影響?)、とさえ思わせていたシンジ君の人格描写が、何故か「Q」では急激に後退してしまっているのも腑に落ちない。常日頃「シンジは僕自身」と語る庵野監督の精神状態が、その時のシンジ君の人格描写に投影されているのなら、やはり「疲れているのではないか」と下衆の勘ぐりを入れてしまいそうである。

 とはいえ「船酔いのような」圧倒的な作画はやはり感嘆の一言に尽きる。ここまで倒錯的で幻想的なCGシーンは日本アニメ史でも特筆すべき作品となろう。加えて注目されたカオル君の描写だが、風呂シーンこそ無かったが「こいつ何を食って生きているの」という妖精加減は相変わらずである。多分何も食べないし何も排泄しないんだろうが、やはりというか何というべきか、この辺りはお約束の踏襲であろうか。僅かにTVシリーズの残滓と良心を垣間見る場面であった。しかし個人的には、年上の女性が大好きな私はミサトさんの露出が少なすぎたのは慙愧に堪えない。リツコのノースリーブ姿とかはどうでもよいからええい、もっとミサトを映せ!(テム・レイ風)

 冗談はこのくらいにして、全体的には勿論、次の「FAINAL」を観てみないと何とも言えない内容なだけに、真の評価という意味ではまだまだ時間のかかる作品であろう。しかし繰り返すが私はエウレカセブンを見にバルト9くんだりまで行ったわけではない。別に私がエウレカが嫌いだといっているのではなく、エウレカはテレビと「ポケットに…」でもう十分食傷気味であるという事実を言っているだけだ。

 それにしても本当に、エヴァの社会的地位は向上したものだ。バルト9にはリア充どもがわんさかと居たぞ。まるでデート気分である。別にデートなのはよいが、彼らの何割が1997年の旧劇場版に並び、その前TVシリーズ全26話を観たのか。私が中3の時、前日の深夜から氷点下の中10時間以上待って漸く席に付くことが出来たあの「社会現象」の熱気が、クールでスマートな企業のタイアップと最早コンビニ感覚で語られるエヴァンゲリオンに変貌した。嗚呼、また悪い癖が出た。古参兵の愚痴はこの位にしよう。兎に角、勿論「Q」は観たほうがよいに決まっている。DVDが出てからで…という選択肢は、やはりこの圧倒的な「CGの船酔い」を体験していただくためにも劇場に足を踏み入れるべきだ。そしてなんとしても、この機会に「巨神兵東京に現る」を見るべきである。 


バルト9内の私

・告知ポスターを前に記念撮影(って実は結構楽しんでいる)

・初号機を背景に


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