愛ある体罰など存在しない


大阪府立桜宮高校(MSN産経より)

 今日の朝日新聞(2013.1.10)の”天声人語”では、10年前にイギリスで行われた子供たちの体罰反対デモに言及されていた。「愛の鞭は存在しない」などという内容の手紙を英首相に手渡すなどし、その後英国では体罰が法律で違法化されたという。今回、大阪市の桜宮高校でバスケットボール部に所属する男子校生自殺事件を受けてのコラムだったが、朝日新聞ながら良いコラムだと感心した。何より、体罰の当事者である学童が自ら体罰の禁止をデモで訴えることができる環境を羨ましく思った。

 体罰、の問題には必ず「肯定派」側から「愛ある体罰は肯定されるべき」との意見が出される。実際、桜宮高校の加害者教諭(47歳)の体罰を経験した周囲からも、少ないながらも肯定的とのニュアンスを訴える生徒なども居たとされる。

 しかし、体罰の根本的な問題はそれが圧倒的な上下関係者を根拠に行われる、という点だ。「私のほうが上で、君は下」というそんな生やさしいものではなく、支配者と被支配者という、圧倒的な力関係の範囲内で行われる暴力を「体罰」と形容している。それはオランダと植民地にされたインドネシアの関係や、イスラエルガザ地区の関係性と似ているが、植民地の住民やガザの住民は人口が多いので、時として徒党を組んでその暴力に抵抗することが出来るが、中学生や高校生は個人なので連帯することもできない。圧倒的に弱い個人に行われる専制的な暴力は、単に「体罰」と形容するのを躊躇われる程の暴虐性を含んでいる。

 桜宮高校の自殺事件で、加害者である47歳の教諭は、例えばもし彼が大学の講師や教授(そんな教養もスキルもないと思うけれども)であったとしたら、同じように「体罰」をゼミや講義のお教え子に下していただろうか。答えは絶対にノーだ。中学・高校では教員の暴力が問題になるのに、大学の学部(院については私は進学していないからわからない)で物理的な暴力という形での「体罰」問題をついぞ聞いたことはない(セクハラを除く)のは、大学生は高校生と違って体に訴えなくても頭で理解できる学力を有しているので体罰の必要はないとか、そういう理由ではなく、単に中学生や高校生に比べて学生の立場が圧倒的に強いからだ。

 中学生や高校生は、不登校で周囲から白眼視されたり、内申書や大学等への進学があるので、とりわけ教諭や教員に対して立場が圧倒的に弱い。大学生のように嫌なら授業を変えるとか単位を落とすとか学校に行かないでバイトに励む、という逃避の手段が殆ど無い。「霧島部活やめるってよ」(吉田大八監督)に描かれた地方の進学校ですらも、いじめや体罰は描かれないが、独特の得も言われる閉鎖性・ムラ性のようなものに満ちている。それが高校までの日本の教育環境だ。

 そういった逃げ場のない、抵抗の手段が皆無であることを確認して、「体罰」は行われる。要するにこいつは絶対に反撃してこないことを周到に計算した上で暴力が振るわれる。自分が圧倒的な上下関係の頂点にいるということを十分に自覚し、確認した上で暴力を振るう。何のことはない、「いじめ」と同じ構図である。いじめをする加害者は見境なく暴力を振うわけではない。かならず自分より圧倒的に弱く、反撃の可能性がほぼない人間に絞って暴力に訴える。要するに品定めし、攻撃可能かをじっくり調査している。

 この様な人種のことを私は「屑」「ゴミ」と呼ぶが、もしそれでも「愛のある体罰は必要悪」であるというのなら、是非その体罰とやらを上下関係の枠の中ではない、自分よりも目上の人間に対しても同様にやっていただきたい。愛とやらは上下関係の中だけに適用される形容詞なのか。おかしいではないか。愛は上にも下にも平等のはずだ。今回、加害者となった教員は、同じ高校の教頭や学校長や、教育委員会の人間に対しても同じように「愛のある体罰」「教育的指導(AKIRA風)」とやらで彼らの不正や姿勢や怠慢に義憤し殴りかかるのであれば、体罰の正当性は証明されると言えよう。それをやるんであれば私はこの教員を擁護する。しかしそれができないのであれば、やはり「体罰」は圧倒的な強者が弱者を一方的に虐げる悪逆な植民地総督の残忍性と何ら変わることはないだろう。


ドイツ映画「es」(2002)

 2002年にドイツで公開され、世界的にヒットしたB級映画「es」(エス)を観たことのある人が多いと思う。1971年にスタンフォード大学で行われた監獄実験をモチーフにした映画だが、数十人の被験者を無作為に「看守」と「囚人」に別け、彼らの感情の変化を追うフェイク・ドキュメント映画の一種だ。「看守」役になった被験者たちは、やがて傲慢になり、囚人役の被験者に暴言や暴力を振るうようになり、秩序は崩壊、本当の殺し合いに発展するというストーリーだ。

 この映画で重要なのは「極限状態で人間はどうなるのか」とかそういったことではなく、「人間の最も強い快感は、他人をコントロールすることである」という人間の本能の部分を提示したことである。私には、桜宮高校の加害者教諭に、この映画「es」の看守役の姿がフラッシュバックして悪寒がした。高校というムラ的な閉鎖空間の中で、圧倒的な上下関係の頂点に位置する学校の教員は、やがて暴言を吐き、平気で平手打ちや暴行を加え、そして流血の惨事に発展するまで自らの異常性を疑わない「es」の看守役の男たちと重なる。

 しかし本当に恐ろしいのは、「es」に登場する看守役は、一度実験場の外に出れば、スーツを着てネクタイを締めて、ビジネスバッグを持って地下鉄に乗るような、ごく普通の平凡な市民に過ぎないという点である。「他人をコントローすることがもっともな快感」という人間性の本性は、実はしごく普遍的な闇として我々のすぐ傍らに横たわっていることを示している。

 私が通った小学校・中学校・高校には本当にゴミのような教員が多かった。私自身、残虐な体罰を直接受けたことはないが、やはりきわどい事例は何度も経験した。特に悪かったのは中学校時代で、人間のカスのような教員が平気で教壇にたって、些細なことで男子生徒を日常的に蹴ったり、あまつさえ体育教師が女子生徒に平手打ちを食らわせているのを目撃したりした。その教員の顔も名前も今でも覚えていて、検索するとまだ札幌市内の別の学校にいるらしいが、今でも早く死ねばいいのにと思う。

 しかしそんな彼らの態度がころりと変わる日があった。学校の開放日(参観日)で父兄が訪れる日は、まるで聖人君主のような柔和な顔つきになり、怒鳴ったり蹴ったりはしない。本当に「愛ある体罰」が存在するのなら、誰にはばかることもなく父兄の前で行えば良い。しかし自らにこそ最大のやましさがあるから、学校が閉鎖性を解放するときに限ってかれらは大人しくなるのである。自らのやましさを自覚しつつも、圧倒的な上下関係の中で、自分より下の人間をコントロールする快感に、彼らは逆らえなかったのである。戦中、学校の教員は自ら率先して教え子を戦場に送り出す先鋒に立った、と日教組は自ら反省している。それが本当かどうかはわからないが、「他人をコントロールする快感」に日常的にいる学校教員が、翼賛体制の一翼を担ったという理由は分かる気がする。戦後は反戦平和に変わった学校現場だが、彼らは「他人をコントロールする」という基本的な快感は変わっていないような気がする。実は中学・高校の教員と、ファシズムは根本的に親和性が高いのかもしれない。勿論私はそうではない良心の教員をたくさん知ってはいるが。

 繰り返すように、私は学校の教員を全てゴミだとか屑だとか言っているわけでもないし、「es」のように、教員ではなくとも誰しもが残忍性をむき出しにする普遍的な危険性を有しているといえる。しかし繰り返すように、「体罰」が「自分より圧倒的に目下の人間に対して行われる残忍な暴力」である以上、絶対にそれを肯定することはできない。「体罰」は学校空間という特異な閉鎖性を伴った空間だから発生する人間の残忍性であり、決してそこに「愛情」などは存在していない。

 体罰を受けた側が「嗚呼、先生が殴ってくれてよかった」等と思うのは、余程その程度が軽いか、それともマゾ性を有しているかのどちらかで、ほとんど被害者は例外なく報復感情を覚える。私は今でも、大きな体罰ではないが言葉の暴力を受けた中学校の教員に対して、法が許すのであれば何処かでばったり合う偶然を装って半殺しにしてやりたいという報復衝動に駆られることがある。暴力が生むのは愛ではなく報復と恨みだ。

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※思い出の北大学力増進会

 私は中学生の時に、地元の学習塾北大学力増進会という所に通っていた。当時から札幌市内では大手の地元学習塾で、それなりの月謝もするので主に教育熱心な家庭の子供が通っていた。高級塾というイメージがあった。その頃から本州に進出してはいたが、近年では東証1部に上場まで果たし、私が通っていた頃とは比べ物にならないほど規模を拡大しているという。そんな「増進会」の中でひとつエピソードがある。毎回、生徒にヤクザ調の暴言を吐きチョークを飛ばすアルバイトの講師Aが居た。北海道大学卒の若い男で、地元では北海道大学以上の偏差値の大学が無いので、北大卒者は東大か京大と同列に近い権威性があった。

増進会」が関心なところは、当時既に、毎週一回か毎月一回か忘れたが、生徒たちに指導している講師を採点させるという逆アンケート評価システムを採用していた点である。狭義の「体罰」とまではいかないが、暴虐無人な彼の振る舞いに我慢できなくなった私は、同じクラスの級友2〜3名をオルグって、「アンケートにあの講師Aがしている暴力的な振る舞いを書いて告発しよう」ということになった。すると、投書からものの数日と立たず、幹部の講師が教壇にたち「講師Aは我が塾の指導者にはふさわしくないと判断し、解雇しました。みなさんは気にせず、新しい先生のもとで勉強に励んで下さい」というような結末になった。生徒の声を聞いて、きちんと調査してくれたのだと感動した。

 「増進会」は私の成績向上には役立たなかった(塾が悪いのではなく私がサボっていたので)が、実にこの点は今でも素晴らしいと思っている。要するに、オープンな市場原理が採用されている現場では、「体罰」も「暴言」も淘汰されるということを言いたいのである。本当に愛のある暴言や威圧であれば、この講師が罷免されることはなかった。単に上下関係を借りた居丈高な行為、と認定されたからこそ彼は解雇された。実に客観的な判断だと思う。講師Aはきっと学歴だけが誇りの、塾の一歩外に出たら平凡なおとなしい男だったのだと思う。自分の言いなりになる、圧倒的に目下の中学生を前に、「他人をコントロールする快感」に目覚めてしまったのだろう。無垢な中学生を相手に、ヤクザのような口調で威圧したり激昂したりするのは、外から見ると本当に恥ずかしいことだが、「看守」役になりきっている当事者の彼には分からなかった。本当に哀れな男だと思う。

 「他人をコントロールする快感」の虜になった人々の中に、特に中・高校の教員が多いというつもりはないが、市場原理が働く民間の学習塾と違って、公教育の現場は特に根が深いと思う。今回、桜宮高校で暴行罪が問われている教諭は、きっと自らが実刑判決を喰らった後、薄暗い監獄の中で、初めて自らが「コントロールされる側」の悲哀を味わうであろう。出来ることなら刑死を以って償うべきである。

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ぼっち飯の楽しさ-「孤独のグルメ」と孤食万歳

 久住昌之原作の傑作漫画、「孤独のグルメ」を読んだことがある方は多かろう。最近では松重豊主演でドラマ(テレビ東京)となり、シーズン1と2を消化したところだ。ドラマの方も中々良くできている。Blu-ray、DVDも発売されるそうだ。

 「花のズボラ飯」と併せて、最近久住昌之原作の作品のブレイクが著しい。私は「孤独のグルメ」には数年前に出会ったが、未だに事ある毎に読み返すほど好きな作品である。個人事業で雑貨商を営む男・井之頭五郎が、一人で大飯を食って店を出ていくという1話完結の作品である。作品の高い完成度の割に、続編が出ることもなく、「孤独のグルメ」シリーズは漫画1冊のみで完結している。このコンパクトさもこの作品が親しまれている理由かもしれない。

 つとに最近、「孤独」が悪いかのような風潮が出回っている。一人で飯を食うことを個食ならぬ「孤食」と言ってネガティブなイメージを付加させようとしている。「便所飯」「ぼっち飯(ぼっち)」という単語も流通するようになった。漫画「僕の小規模な失敗」では作者の福満しげゆきが大学生時代に経験した便所飯の描写が克明に描かれているので読んでみると良い。

 一方、「大人数で飯を食う事」「大人数で酒を飲み交わすこと」が善とされ、その最たる象徴がここ数年のBBQの流布であろう。アングロサクソンの風習が、広い庭が存在しない日本の狭小な住宅環境で普及したのは、輸入肉が安く手に入るようになったとか、国産炭火の性能が向上したとかそういう事ではなく、単純に「俺は(私は)決して一人ではないんだ」というアリバイの為に開発された、「孤独でいることは悪だ」という強迫観念を打ち消す集団心理行動のように思える。

 「孤独」という言葉に死のイメージが付きまとうようになったのは、ここ数年の「孤独死」という単語の誕生と関係している。老朽化した公団住宅に、誰知られることはなく高齢者が臨終を迎える。これをNHKなどが大々的に社会問題であるとして取り上げ、「孤独」という単語と「死」が結びついた。最後には「無縁社会」などと四文字熟語も創りだす始末だ。私は個人的には「孤独」は「孤高」と同義と思っているが、ここに「死」や「無」という一文字が付加されるようになってから、「孤独」にはひときわマイナスのオーラがつきまとうようになった。人々は必死に、自分は孤独ではないことのアリバイ証明をしようとする。その最たるものがBBQの隆盛であろう。

 本作「孤独のグルメ」は、井之頭五郎という中年男が、場末の定食屋や路地裏の小料理店で誰とも交わらず黙々と飯を食う事に終止する作品だ。五郎が一滴の酒も飲まない、下戸という設定がこの作品の白眉なところである。一人の酒は哀愁と侘しさを感じさせる。少なくとも漫画の中で男が一人で酒を呑む描写は、寂しさと逃避を彷彿とさせる。そうしないために、あえて「孤独のグルメ」は五郎から酒を遠ざけている。五郎は決して寂しいわけでもなく、世の中の何かから逃避しているわけでもない、という強い漫画的演出に貫かれているのだ。五郎は劇中で過去に女優との交際関係が描かれ、経済的にも決して貧しくはなく、営業的なことをしている設定からも社交性もきちんとある。何かが辛くて一人で食べているわけではない。五郎は「孤食」に追い込まれているのではなく「孤食」を自ら選択しているのだ。「孤独のグルメ」で描かれる孤食の風景は、決して寂しいものではなく、寧ろ人生の余裕と食への喜びに満ちている。

孤独死」という言葉にはそもそも矛盾がある。高齢者が公団住宅の中で誰知らず死んでも、家族や孫に恵まれた老人が病院のベッドの上で臨終を迎えても、それら両者は同様に孤独である、という点を無視している。つまり死とは常に一人で迎えるものだという事実を無視している。沢山のチューブと点滴につながれて死を迎えるベッドの上でも、死ぬ時は一人で死ぬ。友人や知人に恵まれた若者でも、ある時突然、脳出血心不全で一人死ぬ場合もある。人は常に孤独なのだという事実を「孤独死」という言葉は誤魔化している。

 本来全員「孤独死」であるはずなのに、なぜか「一人で生活していた事」のみが不幸の主因として強調される。要は関係性の希薄を不幸だ、問題だといっているのである。「死」が問題なのではなく、「孤独」こそが問題なのだといっているのである。そこには「孤独死」した老人たちは、実は生前幸せで充実した人生だったのではないか?という想像力はない。「孤独死」を迎えた老人の何割かは自らの「孤独」を問題にしなかった人々もいて、井之頭五郎のように「孤食」のグルメを年金で楽しんだ人々もいるだろう。そういう視点が全く抜け落ちている。とにかく「一人で居ること」こそ最大の悪だといっているのである。実に滑稽な問題提起だ。

 「孤独のグルメ」の五郎は、そういった「孤独」への定説を小気味良く覆してくれる。ともすれば「一人で居ることは悪だ」とされがちな風潮の中において、寂しさのかけらもない「孤食」を貫く五郎のグルメ譚は、「一人で飯を食ったり飲んだりすること」が白眼視されがちな同調社会の中にあって、一縷の希望といっても差し支えないだろう。

 私は大学生の時、友達がいなかったので必然的に一人で飯を食うしか無かった。リア充どもでごった返す同じ大学内の他学部の食堂の中で、一人もぐもぐと飯を食うのを誰か知っている人間に見られやしまいかと気恥ずかしさを感じながら生活していた。こういう経験は誰しもが持っていると思う。誰かと一緒に居ないと「ぼっち」だと言われる。そういうレッテルを貼られうことが何よりの恥辱だと考えていた。

 しかし青春をとうに過ぎたいま、私は一人で飯を食ったり飲んだりすることこそ実は最高の至福なのだとだいぶ前に気がついた。寿司も居酒屋も焼肉も映画もショッピングもドライブも時としてカラオケやラブホテルへの宿泊も、特段約束やデートがなければ常に一人で済ませている。自ら進んでそうしているのだ。一人で居ることが何よりも好きだ。「孤独」は「孤高」と同義だと書いたが、それと同時に何者からも自由だからである。「孤食」を楽しむことが出来る人間が多くなればなるほど、「孤独は悪である」ことを煽るメディアの影響力の低下と、それに同調しなければ不安になる哀れな患者の数も減少することに寄与するだろう。多分それは、ムラ的なこの国の何かに苦しめられている人々の希望に繋がっていくと思う。そしてその、「ムラ的な何か」の最大のものこそこの国のメディアだからである。

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敗戦国が創った戦争映画は美しい


(左、2001年版。右、1993年ドイツ版)


 2012年の大晦日に、偶然CSをつけたらやっていた、ジャン=ジャック・アノー監督の「スターリングラード」(2001年)を観た。「たぶん面白く無いだろう」と思って今まで意識的には全編観なかった作品だった。本作はいわずとしれた独ソ戦最大の攻防である、ソ連工業都市スターリングラード攻防戦をテーマとした作品で、主人公はソ連の狙撃兵役のジュード・ロウ。対するドイツの狙撃手ケーニッヒ少佐(エド・ハリス)との狙撃合戦がメインの戦争活劇である。

 結論から言うと、この作品は私が観た戦争映画の中でも最悪の部類にはいる程のクズ映画だった。何がクズかって、馬面のジュード・ロウが登う見てもスラブ人には見えないとか、のっけから全編英語で「オーマイガッ!」とかいうソ連人民とかが萎え萎えなのだが、別に非英語圏が舞台なのに全編英語の戦争映画は「シンドラーのリスト」とかもそうだったし、タランティーノの「イングロリアス・バスターズ」を見習って欲しいとはいえ、まだ救いはある。問題はその映画的志の低さだ。

 野営地でジュード・ロウとヒロインのレイチェル・ワイズがまるでアメリカのティーンエイジャーのようにセ○クスしたり、それを受けて嫉妬に狂ったユダヤソ連人が自殺行為に走ったり、凄く軽いノリでジョークを言いつつ共産主義を皮肉っているかに見える(あくまでアメリカ風に)先輩の狙撃兵とか、ドイツ軍に包囲されて飢餓寸前なのに顔がツヤツヤで血色の良いソ連の子供とか、そんでもって結局ヒロインが迫撃砲(?)で胸をやられたのに次のシーンでは「ケロッと」して生きている大団円(1000万も死んでいるのにね)とか、あれだけ慎重だったケーニッヒ少佐が「あまりにも初歩的なミス」であっさり撃ち殺されるところとか、もう何をとっても「都合のよい西欧的解釈」でスラブ民族や当時のソ連人をこれでもかとデフォルメしているその勝手な脳の構造である。戦争を色恋沙汰の道具にしてしまう脚本のレベルの低さとその発想の貧困さに憤慨。

 松村邦洋が特攻隊員をやっていた映画(※君を忘れない)以来、久しぶりに殺意を感じた戦争演出の拙さである。ジャン=ジャック・アノーといえば「薔薇の名前」「セブンイヤーズ・イン・チベット」で一躍名の知れたフランス人監督だが、私は個人的には「薔薇の名前」のストイックさが好きな程度で、どうも反りが合わない。

 一方、同じスターリングラードを題材にした作品でも、1993年のヨゼフ・フィルスマイアー監督の「スターリングラード」(独)は本当に白眉の作品だ。統一ドイツが国家事業として製作した本格的な作品で、徹底的な時代考証と無慈悲なまでに観客をどん底に突き放す演出は、「嗚呼、本当の地獄とはこのことを言うのだ」という感覚に見るものを引きずり込む傑作である。私が大学生の頃、本作のビデオを友人に見せた所、彼はラストのエンディングから数十分、立ち上がれなかった程のショックを与えたという筋金入りの(?)作品である。時間がある人は是非ドイツ版の「スターリングラード」を見て欲しい。

 西ドイツ、統一ドイツには本当に優秀な戦争映画が多い。言わずと知れた「Uボート」もそうだし、最近では「ヒトラー最期の13日間」も然りである。当然、戦後のドイツだからヒトラーを少しでも礼賛する描写はできないが、さりとてそれでも日本の戦争映画とは違う所は、意図的に思想性を排除している点だ。戦争は駄目だとも肯定的だとも言わない。いや、なるべく言わないようにして、写実的に淡々と事実だけを記述していく。これは私は素晴らしいと思う。最近の日本の戦争映画は必ず「戦争は駄目(悲惨)だ」若しくは「あの戦争は正しい(面も)あった」のどちらかに寄る(最近は後者か)。もちろん私は個人的にあの戦争は正しい部分があったと思っているが、映画にした時にその思想を画面に落としこんではたちまちその作品は陳腐化すると思う。

Uボート」のラストでは英軍が封鎖しているジブラルタルの難関を突破し、艱難辛苦を乗り越えた末に地中海にたどり着いた後、あっけなく空襲で沈んでいく潜水艦をただ呆然と見つめる船長。そこにはドイツの未来とか第三帝国の崩壊とか戦争がイケナイとかそういう政治的な思惑云々ではなく、ただ「Uボート」の終りと一人の船乗りの人生の終末があった。ドイツ版「スターリングラード」では独ソ両国の大量の死の後にただただ広大なロシアの白い白い氷土がどこまでもどこまでも広がっていた。戦争が悪かったとか、戦争は良かったとかそういう問題ではない。「嗚呼虚無だなあ、何にも残らねぇんだなあ」。そういった虚脱感を残してくれる戦争映画こそ私は最高の映画だと思う。

 そういう意味では、実質的にアメリカが「敗戦」したベトナム戦争を扱った映画には傑作が多い。私が個人的に最も好きなスタンリー・キューブリックの「フルメタルジャケット」のラストは、ベトナム戦争が悲惨だったとかアメリカの戦争犯罪とか、そういうメッセージ性はなくて、ただただベトナムの廃墟の中で兵隊たちがミッキーマウスのテーマを歌いながら終わる。そういう虚無と静寂こそが、実は最も、言葉で100万回「反戦」を言うよりも効果的なんだとスタンリー・キューブリック監督はわかっていたのだろう。

 「男たちの大和」とか「俺は君のためにこそ死ににいく」とか、最近の「保守史観」に寄った日本映画は実はそういう意味ではあまりというか結構好きではない。ものすごく嫌いではないがハッキリと好きには成れない。「戦メリ」の方がよっぽど良い。その理由は既に述べたとおりだが、これまでの、特に90年代以降の邦画がすご〜く自虐史観に染まっていたので、やむを得ない反動だとは思うが、映画としては決してレベルが高いとは言えない。いや寧ろ低い。そういう意味においても高畑勲の「火垂るの墓」は実に虚無感が出ていて好きだが、またぞろこの作品が毎年8月にテレビ放映されることにかこつけて「反戦平和を訴えた素晴らしいアニメ作品」と解釈する政治屋のせいで不幸な評価に振り回された作品となってしまった。

 ジャン=ジャック・アノーのように現代的価値観で勝手に戦争当時をデフォルメするのでもなく、自虐に寄るのでも、「あの戦争は正しかった」路線の思想を混ぜるのではなく、ドイツ版「スターリングラード」のような虚無の超大作映画が、現代日本人の監督の手によって、そして最新のCGやら技術やらを駆使して作られることを切に希望したい。

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桐島で始まり桐島で終わった2012

 もう2012年も残り少ないのである。2012年は単行本を3冊刊行できたのは幸いであるが、あそこをもっとこうすれば良かったという悔いも残っている。ともあれ、2012年度を振り返るに最高の映画体験は「霧島部活やめるってよ」(吉田大八監督)であった。

 この映画は私に「まだ何者でもない頃の自分」を思い出させてくれた。そしてまだ何者でもないが故の焦燥と諦観を見事に描ききった傑作であったといえる。

 2012年の冬で私は30歳になった。なったというよりも「なってしまった」といったほうが近いが、兎も角「何者でもないまま30歳を迎えた場合は潔く死のう」という高校生時代の覚悟は成就しないで済みそうな塩梅となったのには些か安堵がある。

 しかし、私は2013年を迎えるに辺り桐島が描いた焦燥と諦観からまだ完全に脱し切れていない自分がいるのに気がついた。脱せないばかりか、心はあの何ものでもなかった中学生・高校生のメランコリアにまた戻っている。その理由はひとえに、一応何者かになってしまった自分が、何者かにしてはまだあまりにも小さい事を自覚してしまったからに他ならないのだが、この焦燥に苛まれるまま、私は2013年を生きるしか無いし、また何か有用な決断をする必要もあるのかもしれないと思っている。

 私は愛国者ではあるが「保守」になった覚えはないし、「保守」の「仲間」の一角を濁しているつもりも微塵もない。単に自分の欲望を肯定し、生きているだけである。2012年はいろいろなしがらみがあった。外には出せない、当分墓まで持っていくようなしがらみも感じた。私は何かに所属することは大嫌いである。何故なら所属は安楽で快楽をもたらしてくれるが、と同時に人間の何か重要な部分を腐らせるからだ。その重要な部分が何なのかは言語化できないが、所属は強くて甘い。人は所属という概念に弱い。そしてともすればその所属の欲求に引きこまれそうになる中、寸前の所で等距離をとれたのは2012年の天の采配と言おうか。まず自分はどことも本来等距離であるという、この点を忘れず、小さいながらも常に自存自衛の心を忘れず、自営業者の誇りを忘れずに来年も何かやれればいいと思っている。



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中沢啓治先生はやはり偉人であった

 先日、「はだしのゲン」の作者である中沢啓治先生が肺がんにより逝去されたという報は記憶に新しい。
 「ゲン」を幼少時より慣れ親しんだ私にとって、この報はショックこの上ない事と共に、改めて「はだしのゲン」と中沢先生の偉大さを噛み締めるものである。

 「ゲン」は本当に不幸な漫画であると思う。評論家の呉智英氏が、こう言っている。
”「はだしのゲン」は二種類の政治屋たちによって誤解されてきた不幸な傑作だ。二種類の政治屋とは、「はだしのゲン」は反戦反核を訴えた良いマンガだと主張する政治屋と、反戦反核を訴えた悪いマンガだと主張する政治屋である。”

 近年では、ほうぼうで「ゲン」の評価は後者の方ばかりが独り歩きしている。やれ作中に日本軍の三光作戦支那戦争中)の捏造があるとか、天皇(昭和)の戦争責任を糾弾するシーンがあるとか、そして朝鮮人の強制連行(徴用工に関して)のこれまた酷い事実誤認と捏造があるとかいった風で、ゲン=左翼漫画というふうに貶める内容になっている。確かに中沢先生は終戦時に6歳(=被爆時)であるから、大陸戦線や朝鮮統治時代を知るよしもない。
 要するにこの部分は、戦後の伝聞推定で勝手に描き上げられている妄想である。これと同じ現象は、ラバウル戦線に出征して左腕を失った水木しげる先生もそうで、作中に「日本は中国と朝鮮人を馬か牛のようにこき使った」などとまたぞろ古色蒼然とした自虐史観のオンパレードである。尤も、水木先生の場合は終戦時には成人しているが、南方戦線しか知らないはずなのでやはり大陸のことについては伝聞推定の妄想のたぐいだろう。
 
 しかし私は、昨今この様に「はだしのゲン」が低く評価されることには猛烈な違和感を感じる。大体、「ゲン」を左翼漫画だと批判する人々は漫画全巻を通読し、更にアニメの劇場版の方をもきちんと鑑賞してから言っているのだろうか。前出の呉智英は「ゲン」についてこうも言っている。

”漫画にしろ美術、文学にしろ、何かを訴えるという事は評価の基準にならない。その訴えが正しかったか、間違っていたかなど、本質的な問題ではない。(略)それよりも人間を描けているか、人を感動させるかが、作品の評価基準になる。「はだしのゲン」はこの意味においてまさしく傑作である”
”「はだしのゲン」の中には、しばしば政治的な言葉が、しかも稚拙な政治的言葉が出てくる。これを作者の訴えと単純に解釈してはならない。そのように読めば「ゲン」は稚拙な政治的漫画だということになってしまう。そうではなく この作品は不条理な運命に抗う民衆の記録なのだ。”

 当たり前のことだが、「ゲン」は政治的漫画ではなく、1945年8月6日を境に激変してしまった少年・ゲンの人生を軸に、焼け跡で生きる戦後の一民衆を描いた群像劇である。まるで作品すべてが反戦平和の自虐史観に染め上げられているかのように誤解するのは、この漫画を全く読んでいないか、それとも作中の中沢啓治先生のように行っても居ない戦線の模様を妄想で解釈してしまっているのと同じような愚を犯していることになろう。

 「ゲン」はまず漫画作品として非常に秀逸だと言える。そして各エピソードの漫画的リアリティは、戦後世代が描いた例えば小林よしのりの「戦争論」とは比べ物にならないほど完成度が高く、情緒的である。ゲンの兄(長兄)の浩二が、戦争に反対して白眼視されている父親と家族の境遇を気遣って、自ら率先して予科練に志願する原爆投下前のシーンがある。当然、平和主義者の父親は反対する。駅頭の見送りにも来ない。「親父はとうとう見送りにも来てくれなかった…」と思うと、一点、突き進む汽車の車窓から線路沿いに父親が仁王立ちしている。「中岡浩二ばんざーい、中岡浩二ばんざーい!」もうこのシーンなど涙なしには語れないのだが、これを踏まえても「ゲン」を「左翼漫画」と言うのならもうサジを投げるしか無い漫画的リテラシーである。

 はだしのゲンにはこの様な、読むものの心を掴んで離さないシーンが沢山登場する。傷痍軍人となり内地に帰還したガラス屋の親父ために、ゲンと弟(進次)が街中のガラスわざと割って回るシーン。その恩に、ガラス屋は進次に息子の形見であるはずの戦艦の模型をプレゼントする。皮肉にも進次はその模型と共に火の中に没するのだが…

 一々思い出する涙腺が緩むのだが、まず第一に政治の左右ではなく漫画としてよくできている。戦前はバリバリの軍国主義者で翼賛主義者だった鮫島町内会長。被爆時、「坊ちゃん、おねがいだから助けてくれ」とそれまでざんざん非国民と白眼視してきたゲンに助けを求める。戦後、鮫島はころっと変わって「反戦平和」を唱える広島市の県会議員として何食わぬ顔を演説している…。こういった戦後の胡散臭さを描いている辺り、やはり「ゲン」は漫画として突出した白眉の作品といえる。問題の朝鮮人の描写も、戦後ちゃんと居丈高に振舞う第三国人の描写も挿入している。体験したものだからこそ描ける、戦後の空気である。残念ながらこの漫画的な説得力は「戦争論」にはない。私は別に戦争論を批判しているのではなくて、それは作者が戦後生まれだから仕方が無いといっているのだ。私はやはり「ゲン」は傑作であると思う。

「食わず嫌い」で「ゲン」を読まない「保守」の人々は、まずこれを機に「ゲン」を通読してみれば良い。どうしても時間がないというのなら、アニメ映画版の「はだしのゲン」を見ることだ。特に原爆炸裂シーンは10回くらい見なおして欲しい。これがアメリカのやったことなんだと。これがアメリカの戦争犯罪なのだと脳裏に焼き付けて欲しいと思う。

 被爆当時、広島市内を撮った写真は当時中国新聞の松重美人記者が残したわずか6枚の写真しかない。当時はカメラ撮影がスパイ行為に当たるとして、写真は厳重な制限があった。いまのように自由に屋外に持ち出せる時代ではなかった。それでも6枚あったのは奇跡だが、当時の実相を伝えるのが最早、証言と絵しかない現在、これを物語にして見せた「はだしのゲン」にどれだけの歴史的意義があるか、計り知れない。政治の左右にとらわれず、いまこそ「はだしのゲン」を見なおせ、と言いたい次第である。

そもそも、戦争も原爆も知らない戦後世代が、それら修羅を体験した人々の「反戦平和」思想を、嘲笑う資格があるのだろうか。戦争も原爆も知らない戦後世代の空虚な理論を嘲笑うのは良いが、それを体験した先人の言葉を、政治の左右に括弧して貶める行為は、自らの世界を偏狭にしている原因だと思う。被爆者や戦争従軍者が護憲平和を訴えることはよくあるが、第一世代の彼らの言葉をバカにする資格が、平和の海にどっぷりつかって空調の効いた快適な部屋で菓子を貪っている我々にあるとは思えない。私はそこまで傲慢にはなれない。

 と思ったらyoutubeにアニメ映画版があった。暇な人は是非。



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庵野監督、疲れちゃったの?エヴァQ評

 例えて言うならひどい船酔いになった気分。これが私がエヴァンゲリオン新劇場版:Qを見終わった後の率直な感想である。前作「エヴァ破」から約3年を経て待ち望んだ続編の印象は、「膨大なCGグラフィックという名の巨船の中でひたすら上下左右に揺さぶられた95分間」だったと言えよう。

 なるべくネタバレを避けて欠くつもりだが、実は本作、ネタバレをしようにも理論的に話になっていないのでそもそもネタバレに配慮して筆を進める必要もないかもしれない。上映が始まって感じたのは、「何故この時期にエウレカセブンの二番煎じをやるんだ?」という疑問ばかりであった。我々が見たかったのはゲッコーステイトではなくて、あのシンジでありアスカでありミサトさんであり綾波であったはずだが、一部を除いて序・破とは全く異なった世界観が提示されて面食らった視聴者も多かろうと思う。

 異なる世界観を提示するなら提示するで良いと思うのだが、そもそも本作「Q」の世界観というのは一体何なのだろうか。ひたすら破壊された世界でピョンピョン飛び回るエヴァ「達」。それは美麗でよく動くのだが、肝心の「土臭さ」が微塵も感じられないばかりか綺麗サッパリと消滅しているのはかなり残念である。

 新世紀エヴァンゲリオンという作品は、死海文書とかロンギヌスの槍とかセントラルドグマの巨人とか旧約聖書が云々とか、そういったメタファーの謎解きとか解釈は取り敢えず置いておくとして、大前提的にSFとして極めて完成度の高い作品であったことは言うまでもない。第三新東京市の壮麗な舞台設定と、戦略自衛隊の装備品は、2015年のエヴァ世界の日本、そして世界の状況の説明により見事に修飾されている。つまりシンジ君が通う学校も、ミサトさんが住んでいるマンションも、戦自の戦力(ポジトロンライフル)も、そのSF的裏付けが完璧だったからこそ、あの世界が異様なリアルとして映った。

 2015年(TV放映時は95年)なのに瓦屋根の日本家屋が現存している設定も、奇妙な土臭さを与え結果として本作のSF的完成度に寄与した。登場人物が私服と制服を使い分けている点もそうだ。部屋に入るとちゃんと着替える。台所があって料理を作っている。汚いリビングでビールを飲んでいる。SFでありながら、そのフィルムの端々に映るそういった生活の土臭さの片鱗こそ、実は新世紀エヴァンゲリオンの最大の魅力の一つだったし、それこそがエヴァの非現実性をSF的に担保している世界観であった。だから唐突におかしなフォルムの使徒が出てきても大丈夫だった。エヴァに於ける登場人物の生活空間が現実と並行だからこそ、本来両方嘘であるはずが使徒だけを異物として我々が受容できた。優れたSFとはそういうものだと思う。その圧倒的なSF世界の緻密さが、エヴァの全てだったと言っても過言ではない。

 翻って、今回の「Q」はどうか。何となく新ノーチラス号に似ている新鋭艦?と、エヴァ初号機を起動する装置、旧式の軍艦など、それら軍事力を支えるSF的裏付けが全く見えてこない。パンを咥えて走るシーンの一つでもあればよいが、そういったSFを支える生活の部分が「破」ではあったのに、「Q」では見事消し飛んでひどく観念的(いやもう確信的とでも言おうか)で浮き上がったとめどない台詞にかき消されている。

 あの軍艦を誰が作り、補給はどうしているのか。世界があんなふうにめちゃくちゃになったのに、あの部隊はどうやって運用されているのか。食料生産はどうしているのか。風呂は。セックスは。SF的世界観の広がりが全くない。その証拠に「破」ではあった弁当だのサンドイッチだのの描写が「Q」では味気のない寒天ゼリーのようなものひとつだけに変貌してしまっている。この辺り、「フード理論」を用いて福田里香先生に解説していただきたいものだ。そういった生活や世界観の裏付けを、全く考慮しない脚本的必然性も私には感じられなかったばかりか、繰り返すようにエヴァンゲリオンという作品はその部分を徹底的に描くことによって初めて成り立つSFだったのだ。それがなくなっては単なる、それこそデート向けのおしゃれ映画である。

 無理やりこじつけるとすれば、本作「Q」は庵野監督の「式日」のテイストにやや似ているが、「式日」は実写映画だからまだ鑑賞に耐えたのであってアニメでそれを95分やられると実に辛い。

 多分いろんな事情があったのだと思う。数日前の産経新聞にはエヴァンゲリオンのタイアップを行なっている企業の一覧が載っていたが、有名企業が軽く10社くらいあった。1995年のTV放映時、それに1997年の旧劇場版ではせいぜいUCCの缶コーヒーぐらい(新劇場版でもタイアップしている)のもので、その頃に比べればエヴァンゲリオンの「社会的地位」は便衣兵と近衛兵ぐらいの差になり、当時をリアルタイムで体験した私からすると隔世の感がある。

 そういった中で、制作費やスケジュールや関連企業の関係で、庵野監督を含め首脳陣の苦労は推して知るべしである。但し、私は例えば劇中でシンジ君が綾波綾波でないと知りショックを受けるシーンなどでの「ふらふら」と輪郭線が多重になる映画的に陳腐な演出などの一つをとってみても、やはり「疲れているのかな」と一抹の不安を感じずには居られなかった。多分絶頂期の庵野監督はこういった安っぽい演出はしないのではないか。

 エンドロールが全て終わった段階でその予感は確信に変わった。明らかに「Q」に先立って同時上映された巨神兵東京に現る」の完成度の方が圧倒的に高かったからだ。嗚呼、これは特撮大好きな庵野監督が本当に好きで好きでやりたかったことなんだなと。「風の谷のナウシカ」の巨神兵ビーム発射の有名な場面に携わった庵野監督の自己流の好き放題リメイクなんだなと、「巨神兵東京に…」を観ていてそう感じた。だからこの短編特撮は凄く楽しかった。凄く楽しかっただけに、そのあとの「Q」が見劣りしてしまったのかもしれない。

 「破」で三歩も四歩も「人間的に」前進し、庵野監督の性格自体が1995,97年当時と違って明るくなったであろう(結婚の影響?)、とさえ思わせていたシンジ君の人格描写が、何故か「Q」では急激に後退してしまっているのも腑に落ちない。常日頃「シンジは僕自身」と語る庵野監督の精神状態が、その時のシンジ君の人格描写に投影されているのなら、やはり「疲れているのではないか」と下衆の勘ぐりを入れてしまいそうである。

 とはいえ「船酔いのような」圧倒的な作画はやはり感嘆の一言に尽きる。ここまで倒錯的で幻想的なCGシーンは日本アニメ史でも特筆すべき作品となろう。加えて注目されたカオル君の描写だが、風呂シーンこそ無かったが「こいつ何を食って生きているの」という妖精加減は相変わらずである。多分何も食べないし何も排泄しないんだろうが、やはりというか何というべきか、この辺りはお約束の踏襲であろうか。僅かにTVシリーズの残滓と良心を垣間見る場面であった。しかし個人的には、年上の女性が大好きな私はミサトさんの露出が少なすぎたのは慙愧に堪えない。リツコのノースリーブ姿とかはどうでもよいからええい、もっとミサトを映せ!(テム・レイ風)

 冗談はこのくらいにして、全体的には勿論、次の「FAINAL」を観てみないと何とも言えない内容なだけに、真の評価という意味ではまだまだ時間のかかる作品であろう。しかし繰り返すが私はエウレカセブンを見にバルト9くんだりまで行ったわけではない。別に私がエウレカが嫌いだといっているのではなく、エウレカはテレビと「ポケットに…」でもう十分食傷気味であるという事実を言っているだけだ。

 それにしても本当に、エヴァの社会的地位は向上したものだ。バルト9にはリア充どもがわんさかと居たぞ。まるでデート気分である。別にデートなのはよいが、彼らの何割が1997年の旧劇場版に並び、その前TVシリーズ全26話を観たのか。私が中3の時、前日の深夜から氷点下の中10時間以上待って漸く席に付くことが出来たあの「社会現象」の熱気が、クールでスマートな企業のタイアップと最早コンビニ感覚で語られるエヴァンゲリオンに変貌した。嗚呼、また悪い癖が出た。古参兵の愚痴はこの位にしよう。兎に角、勿論「Q」は観たほうがよいに決まっている。DVDが出てからで…という選択肢は、やはりこの圧倒的な「CGの船酔い」を体験していただくためにも劇場に足を踏み入れるべきだ。そしてなんとしても、この機会に「巨神兵東京に現る」を見るべきである。 


バルト9内の私

・告知ポスターを前に記念撮影(って実は結構楽しんでいる)

・初号機を背景に


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漫画「東京都北区赤羽」聖地巡礼

以前当ブログで書いた、清野とおる先生の漫画『東京都北区赤羽』の舞台となっている、ずばり赤羽に行ってきました。


清野とおる先生の『東京都北区赤羽』最新?巻まで


本作を読んだ方なら分かるでしょう、本作のトレードマークとなっている赤羽西四丁目の坂。左奥二番目のタイル貼りのアパートが、清野先生が赤羽で始めて一人暮らしを始めたアパートです。漫画そっくりです。因みにこの写真は通行人の親切なオバちゃんにとって貰いました。漫画の中で「赤羽西四丁目」と明示してあったので、割とすぐに見つかりました。というか通りかかった瞬間にわかりました。


あまり拡大しては現居住者の方に悪いのですが、これが漫画のモデルになった清野先生が住んでいたアパート。漫画にあるように、裏が竹やぶのように合っていますが、実際は竹やぶと言うより鬱蒼と茂る茂みで、坂の上の空き地のようです。


赤羽駅西口で見つけた何か「キラキラ」と光る露店。残念ながら「ペイティ」氏はいなかったが、なにか気になる露天だ。


露店で買った、3Dの虎の絵?角度を変えると虎が増えたり減ったりする。他にキリスト、うさぎバージョン有り、一枚一五〇円也。


さて『東京都北区赤羽』3巻に登場する名店、『焼豚 米山』初チャレンジである。5時30に並ぶが先客がすでに5名ほど。親切な常連の方に注文方法などを教えていただく。


絶品のレバ刺し。これで220円。他につくね、肉豆腐なども絶品。チューハイ3杯飲んで3,000円でおつり。これは列ができるわけだ。漫画の中には「おい、そこのメガネ!」など店主のオヤッさんが気難しい印象を受けたが、私の場合は物腰も柔らかく親切だった。


このように、注文は紙で行う。独自ルールも慣れてしまえばオツだ。というわけで赤羽を楽しんだ。





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